カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
『シーボルト 江戸参府紀行』 二月二七日 〔旧一月二一日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 竹崎 われわれは竹崎(この町の西部ではそう呼んでいる)とその近郊へ散歩にでかける許可を得た。 長門の西南端、小門真岬・小引島・六連諸島を調査することが、今日のわれわれの課題であった。 小さいグループでわれわれは西鍋町・入江町・西細江町、それから豊前町を通り、竹筒の海岸通りにある税関〔監視小屋〕の近くで休んだ。 われわれの眼前には引島や舟島や豊前の海岸を望む景色がひらけていた。そこには小さい商船が錨を降ろしていて、波止場では人が荷物の積降しに忙しげに立ち働いていた。 第一〇図はこの有様を伝えるものである。下関商業の貨物集散地である。 われわれの到着は評判になった。好奇心を抱いた群衆が殺到してきて、ここでは測量はうまくゆかなかった。また登与助も今度はこの地方の略図が描けなかった。われわれは今浦へ行き、海岸にある漁師の家に立ち寄り、われわれを先へ案内するのをためらっていた日本の士官たちに葡萄酒と酒をすすめて、なおさらよい気分にならせようとした。今浦の村はもう下関の地域に具していなかった。 早鞘へ小旅行を企てたときにもわれわれはこれと似た状況であった。外国人をもてなすことの禁制は、日本の全住民に非常に恐ろしい力となってのしかかっているので、われわれが体験したいっさいのことから洞察されるように、ひとりの外国人が、見つけられずにただの一日でも日本の土地にとどまっていることは不可能である。 我々は監視者に対し、我々の仕事には関与せず小門からの帰りをここで待っているようにすすめ、彼らもまたそれに賛成した。 我々は彼らの視界から離れてしまうと、すぐに仕事にかかり、一連の測量によって引島のまだ全く知られていない東海岸を確定し、湖のようにここに開けている海のほかの多くの地点を訂正した。 最も重要な測量のうちの数例をここに挙げようと思う。 舟島は南20度東。 内裡の町は引島の東端とともに南10度東、 引島の東北端(天ノ郷崎)は南35度西、 小倉の町は前にある引島のために見ることはできないが、われわれと同行の日本人はその方角をわれわれにはっきりと示した。それによると前方南16度西にあたった。それからわれわれは小門へ急ぎ村の西南にあった岬に登った。 そこからは玄界灘を望む広々とした景色がひらけていた。ここは日本の地図では大きな欠陥があった(われわれは当時日本の精確な地図も上述した海図も知らなかった)。この地図では九州の海岸からよりも日本(本州)の海岸のほうからいっそう遠く離れている引島は、ただ狭いほとんど一町(14・54メートル)〔109・09メートル〕幅の海峡によって小門鼻岬と隔てられ、そして長細い岬となって西北の方向に延びて、いわば六連島に接しているように見えた。 我々はここで眼前に、この六連島と引島の西北ならびに東北岸を鳥瞰し、登与助は見取図を描いたが、その図は彼が熟練と技術を備えていることを証明していた。 宣誓な地点 の決定に関しては、われわれは次に掲げておいた。 引島の北端は東68度南、岬のいちばん端、おそらく岬とひとつになっていた笥島(TAKENOKOSIMA)は北86度西、元来上ノ六連(KAMINO―MOTSURE)と呼ばれている六連島の南端は北59度酉、小さい馬島(MUMASIMA)(小六連KOMOTSURAともいう)は北73度西である。 長門の西岸にある武久岬は北4度東、室津岬は北9度東で、われわれは同じ名の村をはっきりと見ることができた。 武久の近くでは武久川が、室津付近では綾羅木川(ASARAKI‐GAWA)が海に注いでいる。 六連諸島は六つの小島から成る。 一、塙浦村のある上ノ六連 二、小六連または馬島 三、金崎島(KANASAKISIMA) 四、和合良島(WAKURASIMA) 五、温子島 六、片島 で、あとの四つは無人島である。 向いにある筑前の北岸では鐘崎まで眺められる。 芦屋岬は南87度西、若松の水道(洞海ともいう)は南61度西にある。 芦屋岬と同緯度のところにふたつの小島が並んでいて、双子島とか男女島というが、北の島は男島で北69度西、もうひとつは女島で北73度西にある。 もっとずっと北の方にひとつの島があって、北33度西にあたる。同伴者のいうところでは藍ノ島という由。 小瀬戸という幅の狭い水道は東から西へ延び、小門鼻岬と引島の北端で形造られ、人々の言によると、約114メートルの幅があるだけで、小さい商船だけが航行できる。 瀬戸の潮流は速く、鳥偏の、ちょうど小門鼻岬の向いに暗礁があるので、航行はなおさら危険である。 今浦ではわれわれの費用で楽しい事をしていた武士たちに会い、夕方われわれは水路学上の小旅行から下関にもどった。 ★高野長英 そこにはたくさんの患者が特っていた。その中には平戸の捕鯨業者がいて、前述した医師高野長英の捕鯨に関する論文は、この人に負うところがすこぶる多い。彼の非常に豊富な経験からわれわれに捕鯨に関し若干の詳しい報告をさせる目的で、彼をここに伴って来たのであった。 収穫の多い捕鯨は平戸島・五島および女島群島・壱岐鳥付近、従って北緯31度から34度、グリニッチ東経128度から130度までの範囲の間で行なわれるという。 そのいちばんよい季節は一二月から四月初めまでである。それゆえに平戸侯の特権収入である捕鯨はこの期間、ふたつの会社に賃貸される。前年においては冬の捕鯨に対する賃貸契約は九万両、すなわち約一八万グルデンに達した。賃貸(契約)期問外にとれた鯨に 対しては鯨の大きさを標準として税金が支払われる。 4尋2尺(6666メートル)の長さおよびそれを超えるものは100両あるいは200グルデンである。それより小さいものに対しては税は比較的少ない。 ★日本の鯨(くじら)捕鯨 この動物(鯨)の長さというのはただ気孔から尾鰭までを計るのだそうである。 日本の捕鯨者は、鯨のさまざまの種類を区別するが、彼らはどれも捕えようとする。けれどもそれらのうちの三種、すなわちザトウクジラ・ナガスクジラ・ノンクジラは変種にすぎず、喜望峰でいわゆる、ROHRQUALというものの年齢の違ったものもある。 一方、セミクジラとコクジラは南太平洋にいるクジラの年を経たものと年若いものの違いで、 マッコウクジラはあの有名な(PHYSETER)であり、非常に珍しいイワシクジラは多分わが方のクジラ(BALAENOPTERA ARCTICA.)である。 日本の海ではセミクジラが最も多く姿を現わす。 このグジラの肉はおいしく、日本人の好みに合い最も珍重される。周坤のように、鯨肉は日本では一般に食用となり、およそクジラの何から何までが食用にされ、そしてヨーロッパでは人々がまだ考え及ばなかった用途に使用される。 それゆえに一匹の大きなセミクジラは3600から4000両、7000から8000グルデン……までもする。 そして平均して年間に約250から300頭までのクジラが捕えられるから、それから考えても日本における捕鯨業の重要さが判断される。 ごく控え目に見積っても、クジラは100万グルデンと評価されるかもしれない。業者は20尋(30・3メートル)のセミクジラを見たし、また壱岐の近海で一日に7ないし10頭の、それも大部分セミクジラを捕ったのを眼のあたり見ていた、とはっきり言っていた。 従って日本の捕鯨は、わが国でやっているのとは全然異なった目的で、しかも遮った方法で行なわれる。わが国〔ヨーロッパ〕の捕節水が装備しているような種類の舶は日本にはない。われおれは捕獲、鯨油の製造その他鯨を利用するために必要なすべてのものを備えて各船ごとに出漁する。 日本では普通二五の小舟と8隻の割合大きい船が船団を作って捕鯨にでかける。小さいほうの舟は鯨船(KUZIRAFUNE)で、八つの櫓をもち、11ないし13人が乗り組んいい、5~6間(9~11メートル)の長さの空舟でいるのは本来捕鯨をするためのものである。彼らは鯨が見つかると、この小さい舟にのって鯨に向かって漕ぎ進みモリ(銛)を投げる。大きいほうの船は、さきに堺船という名で述べたもので、商船式に造られていて普通それには石和船という木造船を用いる。傷ついた鯨をつつんだり、あるいはその退路を断つ大きい鯨網を運搬したりする役を受けもつ。こういう網は稲藁か、またまれにはシュロ(棕櫚)の繊維で編んだもので、十丈(38・18メートル)の深さで、300メートルの長さがあるので、これだけで船の積荷となる。捕った鯨や殺された鯨をその網でつつみ、普通は漁村の海岸まで引っぱってゆき、陸揚げ場のうちとくにそういう設備のある場所で切り開く。 肉や脂身やその他食用になるところは魚屋が買い集め、新鮮な状態で日本じゅうのすべての港へ送り出す。 イルカなども同様であるが、食用にならぬものだけが鯨油をとるのに使われる。 いちぱん需要の多いのはセミクジラとコクジラの肉である。われわれはたびたびそれを食べてみた。歯切れのよくない牡の種牛か水牛の肉のような味で、生のまま食べたり塩漬けして食べたりするが、塩漬けのほうがおいしい。塩漬けにして薄い小片に切って食べる脂身は日本人の好物で、塩漬けしたオリーブのような味がする。 内臓、鰭(ひれ)および髭(ひげ)も食用となる。鰭はきれいにおろしてサラダにする。脂身の屑や砕いた骨から鯨油を精製するが、人々はその油を菜種油よりよいとして好んで用いる。焼いて油をとった残りの部分もなお貧乏な人々の食用となり、粉は肥料として用いる。 塩漬けの脂身は慢性下痢の、また胃や勝臓の薬として効能がある。粉にした鬚(ひげ)は便秘薬として、鯨油は苔癬(たいせん)の薬として知られている。 またイナゴなどが穀物についた時に、鯨油を田にまく。 腱からは木綿を織るのに用いる弾弓の線を作る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月26日 07時20分37秒
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