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『シーボルト 江戸参府紀行』
三月一日 〔旧一月二三日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学部 独文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 三月一日 〔旧一月二三日〕 出発は今日ということになっている。早朝から門人や知人が別れを告げにやってくる。今度は多少個人的な利害がもとになって、彼らはこんなに朝早く来るようなことになってしまう。 彼らは師であり友である私に国の風習に従って贈物をしてしまうと、次は私に順番が回って来て、別れのしるしに返礼の品を渡すことになる。 われわれはそんなわけだから準備をちゃんとしておいた。各人は似つかわしく役立つ贈物を受け取った。 薬・薬を入れるビン・オランダの書物や外科用の機械を医師たちの間で分け、装飾品・ガラス器・いわゆる金唐革の品物などを知人にわり当てた。 その時われわれは両方の宿の主人の親切な家族と教子〔名をつけてやった子供〕に充分心を配った。 さらに上に述べた論文の編著者のひとりひとりには特別な贈物をもったいぶって渡した。 ドクトルの免許を得た新人には、取り扱ってもらうたくさんのテーマを課した。 こういう行動をとるに当たってわれわれは常に品位と威厳をもって行ない、同時に心を打つ力強い言葉を使うように努めた。 行斎は秘密の指示をうけて阿弥陀寺の住職のところへ布施を持参し、その名声を慕ってこの海峡の名とした蘭印総督ファン・デル・カペレン男爵を記念して、われわれが奉納節を掲げる許可を得た。すでに前日出島のフィレネーフエ君に手紙を出し、海峡の絵の下書きを送り、奉納画が帰りがけには下関に着いているよう配慮せよ、 と指示した。 その文書およびいわゆる奉結画は羊皮紙に書かれ、カベレン男爵の紋をつけたもので、次のような銘がある。 ここはファン・デル・カベレソ海峡である。 この海峡は、われらにこの国を研究する崇高な 委託を与えた者の名を冠むるべし 一八二六年二月二四日、阿弥陀寺にて 江戸参府の使節一行 ファン・デン・ベルヒも同様に秘密を打ち明けられ、われわれのために僧侶に仲介の労をとることを約した。また彼はオランダの友人の興味深い文書を オランダ貿易の繁栄を望む者の フレデリック・ヘンドリック 中津藩主 正午ごろわれわれは旅装をととのえ、もう一度太陽の高度を測り、宿のふたりの主人・門人・知友を、伴い、オランダの国旗が風にはためいていた宿舎の階段のすぐ前方に停泊していた船に乗り込んだ。 一われわれは船が錨をあげる前に、もう一度町を眺めようと思う。 下関、旧名赤間関 は大きな日本島最南端の、長門藩内の豊浦郡にあり、 北緯33度36分30秒 ・グリニッチ東経130度52分15秒にある。 低い丘が連なり、その北の境界は飯塚から小倉への道程の間者同じような推移性板岩の連山とが重なって、町の中まで延びている。町は御裳川という小川で新旧ふたつの地区に分けられている。海岸に沿って続く大きな石垣は波止場となり、数数の多い石段がそこに通じている。同じような石垣が丘の上のほうへ階段状にに築かれ、その上にどっしりとして反り曲がった寺院の屋根や優美な朱塗りの神社が常緑の古木の間にそびえ立ち、印象的な眺めである。 海水が岸を洗う町は、東部にある寺の墓地、郊外の竹崎、今浦の村を加えると二里あまりに広がり、東から西の終りまで主要道路が走り、その道からたくさんの支道が寺や社へ、さらに郊外に通じている。 本通りは10の町に分かれ、次のような名がついている。 阿弥陀寺町(AMIDAZL‐MATSI) 外浜町(SOTO‐HAMA‐MAT\I) 中野町(NAKANO‐MATSI) 赤間町(AKAMA‐MLLTSI) 上下の南部町(NABE‐MATSI) 東西の帆寄町(HOJOSE- MATSI) 豊前田町(BUZENDA‐MATSI) などがあって、豊前田町は竹筒と今浦に通じている。御裳川には西ノ橋という石橋がかかっている。町の西はずれに河原石を敷きつめたふたつの急流の河床の上に、なおふたつの別々の橋が掛かっていて、観音崎と大江崎の付近で海に注ぐ。観音崎の入江、ことに入江原の湾はよい停泊地で、・釜山(KANIAJAMA)の上手の入江も同様である。 小さい方の通りのうちには、稲荷の社と娼家に通じる稲荷町・芝居小屋に行ける浦町・田中町・同じ名の寺に行く王子町と三百目町などの町筋がある。 漁師や島民の藁葺の小屋がたくさんある町の両端は例外であるが、主要道路の両側には立派な住いやたくさんの商店や茶屋がある。また堂々たる建物もいくつかあり、ふたりの町年寄の宿舎も兼ねる住宅・柳川屋敷や大名や勘定所や商人の事務所などが人目をひく。 しかしこの町を飾るもの位すばらしい神社仏閣で、 そのうちほんのわずかしか訪問できなかったのは実に残念であった。 最も主要な神社仏閣は、 旧市街の東端にある。 一、阿弥陀寺 二、極楽寺 三、神宮寺 境内に帝応神とその父仲哀・母神功を祭る八幡社 四、稲荷神社 五、教法寺、 町の西端には大陸寺・西谷寺・光明寺があり、輝く光の寺ということで、普通三百目と呼んでいる。永福寺・東光寺および福谷寺などがある。 下関は日本における最も繁栄している中位の海港のひとつで、長門周防藩が九州との国内貿易をする中心地であり、船の出入りがたいへん多く活況を呈している土地である。 れわれが当地の友人から得た信頼すべき通報によると、 この町には(1826年に)1890軒の家があり、 全住民の人口は5140人、 そのうち男2860人・女2340人である。 男女の人口の不均衡は、ここの遊廓の中にいて調査の際に計算にはいらなかったおおぜいの娼婦がいたことで説明がつく。 これらの女たちはわれわれの耳には異様に聞こるかもしれないが、この土地では特別の尊敬を得ている。すなわち日本における遊郭の起源をあの不幸な壇ノ浦の海戦のせいにし、戦いに敗れた後、内裡や赤間関にとどまった平家一族出の女官や貴族の娘たちは、戦勝者のいうなりに身を任せる以外にはおのれの身を守り、生活の資を得 ることができなかったのである。それゆえ下関の売春婦は今日に至るまで、われわれの国で美しい貴族の令嬢というのと同様に女郎と称してもよい特権を受けている。 当地の商業はいちじるしく活況を呈し、ことに生活必需品・旅行用品の小売が主となっている、天候に恵まれ、順風をうけて毎日ここに入港する大小の船舶は平均して150を数えるほどである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月26日 10時20分04秒
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