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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月26日
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三 下関から室への旅と室の潜在

  『シーボルト 江戸参府紀行』

三月一日 〔旧一月二三日〕 

  初版第1刷発行 1979年7月15日
  訳者 斎藤 信 さいとう まこと
  東洋文庫87
  発行者 下中邦彦
  株式会社平凡社
  
   斎藤 信氏略歴
  明治44年東京都生。
  東京大学文学部 独文科卒(昭12)。
  名古屋市立大学名誉教授。
   現職(著 当時) 
  名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。
  専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。
  主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。
  主論文「稲村三伯研究」など。

  一部加筆 山梨県歴史文学館

概要 
日本〔本州〕・九州および四国に囲まれた多島海の性格
…… 屋代島到着
…… 牛首崎・上陸・化石となった象の歯
…… マンモスの頭蓋
…… 植物界
…… 景色
…… 出港
…… オカムロ瀬戸という海峡
…… 三島
…… 三島灘の海盆
…… 阿伏兎岬
…… 琴平山
…… 温度
…… 児島・その植物界・日比の製塩場
…… イカ漁
…… 科学と引き船
…… 室戸到着
…… 宿舎
…… 港・大浦湾はヨーロッパ船に適している
…… 山根崎からの眺望
…… 家島諸島
  …… 室の町
  …… 茶屋・室の明神の社・仏寺の塔・花占い
  …… 展望台
  …… 国民性
  …… 室の産業部門

 三月二日 〔旧一月二四日〕 

八時ごろ、われわれは西風をうけて出帆し、潮流に援けられ速い速力でファン・デル・カベレン海峡を通過する。
満珠島の沖合で九州の田野浦に対し南から南二分の一南〔南二分の一東の誤りであろう〕に向けて舵をとり、江崎〔今日の部崎か〕を南45度東、本山岬(MOTOJAMA)を南75度東に望む。これらふたつの岬と、満株・干株というふたつの小さい島は、海峡に船を進める場合には頼りになる目標である。
正午ごろ九州の東北端を認め、御崎の沖合で太陽の高度を計った。これによると、われわれは北緯33度53分にいたのである。
 ここには多数の大小の島々が散在する水路がひらけ、日本の三つの主要な島、すなわち、日本〔本州〕・九州および四国に取り囲まれ、東北の方向に約60地理学的マイルにわたり、北緯33度一13から34度50分、グリニッチ東経130度52分15秒から135度25分の間にひろがっている。
三つの入口がこの島の多い内海に通じている。
西にあるのがファン・デル・カベレン海峡、
南にあるふたつのうち西にあるものを、
タスマン海峡〔現在の豊予海峡〕、
東にあるのをリンスホーテン海峡
〔今は紀州海峡というを注しているが紀淡海峡のことであろう〕
という。
この内海に散在する島嶼(とうしょ)・岩塊・岩礁・浅瀬の数は非常に多い。
幕府の天文家高橋作左衛門の言によれば、 その数は1000以上に達するという。これらは皆知られてい、われわれがヨーロッパヘ持ち帰った日本の地図や海図に挙げられいている。
 日本人はこの広々とした多鳥海を三つの灘あるいは海域に分けている。すなわち、
周防灘(SUWO‐NADA)
  水島灘(MISIMA‐NADA)
および
播磨灘(HARIMA‐NADA)

である。
第一のは周防領から名づけ、最後のは播磨領から名をとっているが、中の灘は三島から名をつけたもので、三島というのは甘い水〔淡水〕の出る島の意味である。
この海域を形成している海岸の地形ははなはだ不規則で、ある所では細長い岬となり、険しい前山となって海峡に向かって突出し、
ある所では入り込んで湾や入江となっている。
周囲の大きい島々は、海岸と海岸の間に横に広がって無数の海峡を形成し、そのため外国船にとってはこの迷路を通って危険な航海をすることは今日まで不可能であったけれども日本の船乗りはこの水路に精通しているので、われわれはすっかり任せておいても安心である。ヨーロッパの船舶が、もしこの海に船を乗り入れようとするならば、航行の際に比較的大きな日本の船をいちぱん確かな水先案内人として目を離してはならない。
すなわち数世紀以来日本の商船のために航路が開かれていて、内海の東端にこの国最大の商業都市大坂が位する。
われわれが持っている海図にはこの主要航路と同様に小舟のため
の狭い水路・港の入口などが詳しく記されている。
最も注目すべき島嶼ならびに地点は旅行の行き帰りの際にお知らせすることにする。…… 
 午後に偉高地を東南から東に望む。四国の伊予ならびに土佐領の山々である。内海の南の入口を示している姫島〔大分県国東半島北方紺5キロ〕の位置は南23度東、それからまもなく佐田岬の低く細長い半島〔佐田岬半島を四国の西海岸に認める。その半島は九州の東海岸にある関崎〔佐賀関半島〕と見たところひとつになっているようであるが、内海の入口は約三里の幅がある。
下関ら17里はなれているという向島〔山ロ県防府市の南〕
・野島〔向島の東南約10キロ〕・笠間島〔徳山市南方の笠戸島であろう〕のかたわらを過ぎ、タ方には航路を東北から東の長島に向け、上関〔長島にある村〕と室津の間の海峡を通過した。
この海峡は島の北端と周防の南角の間にある。われわれは10時
まで帆をあげたままにし、沖家室と屋代島〔柳井市の東で大島ともいう〕の牛の首崎の間に錨を降ろす。やっと数隻の船の長さしかない上関の海峡は南42度東にある。
われわれの真前には平郡島がある。右舷には横島・秋島・八島および宇和島などの島々がある。潮流は速く、船が通過する際に南72度東に針路をとるのは、南に流れがちな潮流のため右舷にある岩
に打ち当たらないためである。





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最終更新日  2022年03月26日 17時24分27秒
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