テーマ:ひとりごと(15382)
カテゴリ:娯楽
先月の29日渋谷のBunkamuraシアターコクーンで、堤真一、常盤貴子(以下貴チャン)
出演の舞台「タンゴ・冬の終わりに」(演出・蜷川幸雄)の千秋楽を観てきた。 <ストーリー> 日本海に面した町の古びた映画館、「北国(ほっこく)シネマ」。 清村盛(きよむらせい)は有名な俳優だったが、3年前、『オセロー』の舞台を最後に 突然引退して、今は妻ぎんとともに、弟・重夫が経営する生まれ故郷の映画館で ひっそりと暮らしている。 ある日、北国シネマにかつての俳優仲間であった名和水尾(なわみずお)と、 彼女を追ってきた夫・連(れん)がやってくる。 今や演劇界のホープとして活躍している水尾は、かつて盛と激しい恋に燃えていた。 彼女は突然姿を消した盛に想いを残したまま女優として歩み始め、 過去を棄てるため連と結婚したのだった。 そんな水尾のもとに、盛から「ぜひ会いたい」という手紙が届き、 こうしてやって来たのだった。 しかし彼女の目の前に現れたのは、 すっかり狂気にとりつかれてしまった男の姿だった・・・・。 (公演パンフレットより) 演ずることに真剣なあまり、悩みもがき、次第に現実と虚構の境目さえ わからなくなってゆく盛役を、堤真一が好演していた。 やはり思っていた通り、彼の声はイイ。 すーっと脳に届き、自然と引き寄せられるような魅力的な声質をしている。 そして、ぎん役の秋山菜津子も登場から最後まで、圧倒的な存在感で 堤と共に舞台を引っ張る。 その迫力に、舞台女優の演技とはこうゆうものかと感心したりもした。 しかし・・・・・正直言って、堤の妻役にしてはあまりにも貫禄というか、 威厳というか、落ち着きがありすぎたように思う。 ただ、それによって貴チャン演ずる、若々しく繊細なキャラクターである 水尾との対比が、よりいっそうはっきりする形にはなっていた。 それにしても主演の堤はもちろんの事、冒頭とラストに登場する 大勢の観客役の俳優に至るまで、全身にみなぎる集中力がすごい。 まさに頭の先からつま先まで、一瞬一瞬を演じる事への緊張感にあふれている。 その熱気に押されたせいか、大きなストーリー展開がないにもかかわらず、 作品世界にどっぷりと浸って舞台を楽しむ事ができた。 そしてカーテンコールの際に、まだ役名も無いような若い役者たちが 流していた涙には、彼らの充実感と達成感がうかがえた。 しかし・・・・オレ個人としては、どうしても気になる事があった。 それは、舞台俳優たちの声の大きさである。 発声がイイと言えばそれまでなのだが、とにかく声が大きい。 それによって、普段テレビや映画で見ている芝居の2割から3割増しで、 演技を大きく見せる結果になっていた。 去年観た舞台「砂の上の植物群」と比べても、かなり増幅された 大げさな演技のように感じられる。 それが蜷川流の演出術なのか、はたまた演劇全般に通じるものなのかはわからないが、 少なくともオレには奇異なものとして届いたという事だ。 その点、貴チャンや堤、段田安則というテレビドラマでもおなじみの 顔ぶれの演技はきわめて自然に感じられ、言うなれば1割程度の増え幅の 演技に映った。 これは彼らがブラウン管を通して、日々慣れ親しんだ顔であったという優位さを 差し引いてもあり余るものだったと思う。 とは言え、堤と段田の両名の演技が、緩急を自在に操ってのピッチングで あったとするならば、貴チャンの演技は常に全力投球でひたむきにストレートを投げ込む、 という感じではあったのだが。 おそらくは観劇を長く続けている人たちから見れば、むしろ貴チャンのような演技が 異端なものとして映っていたであろう。 しかしオレらのような観劇初心者にとっては、そうしたテレビ的な演技は 夢の入口であり、彼女は夢先案内人なのである。 業界全体から見れば、舞台上の人間全てが2割3割増しの演技で主張する舞台が、 必ずしも正しいとは限らないだろう。 一部のコアなファンによって支えられている感のある芝居の興行だが、 これからは、とっつきにくい“一見さんお断り”のような舞台ばかりでなく、 どんどん新しい風を取り入れて、さらなる発展を遂げるべきではないだろうか。 その為にも貴チャンのような演技、存在は絶対に必要なのだ。 彼女が劇中で見せたタンゴのターンのように、微かながらも新風をステージに巻き起こし 演劇界でも活躍してくれることをオレは期待している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.12.02 20:20:31
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