テーマ:映画館で観た映画(8561)
カテゴリ:アメリカ映画
キャスティングと監督を聞いたとき、
このベストセラーの映画化に期待はふくらみまくったのである。 しかし、期待はふくらみすぎると良くなくて、 悪い評判を聞きながらハードルを下げて見に行く。 作品のテーマは原作を読む方が考えが深まる。 だからこそ映画のお話は枝葉末節で書かせてもらおう。 あれやこれやと思いは巡る。 ■極上のミステリはルーブルで幕を開ける 逃げるジャック・ソニエール。 不気味な影を走らせ彼を追う殺し屋は ボール・ベタニー演じる修道僧シラスである。 全てを見届けるのは、歴史に名を残した画家たちの 静かで奥深い瞳を持つ美術品の数々。 本当にルーブル美術館で撮影されたというシーンは、 役者たちの好演と映画関係者の熱意や美術館側の寛容さと あらゆる好ましい要素の詰まった名シーンに思えてならない。 この映画はこのシーンのために価値あるものとなる。 ■トム・ハンクスとジャン・レノの一期一会 この作品でトム・ハンクスはジャン・レノと共演する。 同じことがジャン・レノにとってもあてはまる。 しかも舞台はルーブル美術館である。 映画俳優はたくさんいるけれども、 誰もに巡り来るチャンスだとは思えない。 もし彼らが再び共演することになるとしても、 そこはおそらくルーブル美術館ではないだろう。 この映画はその点でも大いに価値あるものだと思うのだ。 ※惜しむらくはもう少し彼らのシーンが多ければ良かったが 原作でもそう多くないので仕方ないのである。 ■子供も気持ちになって考えてみれば 球体球体、五文字の球体、ニュートン関係だってばさ。 子供の時「伝記」で見たことあるニュートンのビックリ顔。 なんだか「蛙飛び込む水の音」芭蕉さんの閃きにも似て。 (いや、似てないです、失礼しました) まあ、そんなことはどうでもいいとしまして、 冒頭のイチバン退屈なシーンにラングトンの講演会がある。 そことつながってくるのだけれども、との話は次です。 ■で、ラングトンの講演会は何を言っていたか 学生たちにスライドを見せる。何のスライドか、聞く。 その答えはラングトンの予想通りことごとく違っているし、 観る側も裏切られて「えー」と思うと同時に、である。 ラングトンが象徴(シンボル)の学者だと知らせる重要なシーン。 そして「思いこみ」で真実が見えなくなっている、 というサジェスチョンがここにあったりして、 例の「教皇」問題へ発展していったりするのだわ、この脚本。 忘れてはいけないのは、「思いこみ」で、 ニュートン関係の赤い球体を見つけられなかったりする。 そう思わされているのはやはり「思いこみ」のせいである。 ■「何か重大な秘密があるような」感じ 観る側の思いこみとは「何か重大な秘密があるような」感じである。 そして「なかなか解き明かせない」って言う感じ。 だからこそ、面白いんだけどさ。ダン・ブラウン、スゲー。 ■イギリスの大富豪はすべてを知っているのに 金にまかせてサー・リー・ティービングは全てを知っていたりする。 「最後の晩餐」とか「聖杯」とかキリストの系譜とか、 なんだかスゴイことになっているから、 もっとスゴイことが隠されているような気になってくるのね。 金にまかせてなんでも手に入るから、 もっともっとスゴイことが欲しかったんだけれども。 ネタは子供の「伝記」に載っているようなことだったりして。 だからニュートンさんの球体が解けなかったのかな。 原作も作品もこのイチバンスゴイ輩に対して今ひとつ不親切である。 ■では何故、ラングトンだったのか 原作を読んでいてイチバンしっかり抑えたかったのこはココ。 ラングトンは常に思い違いを続けて物語りをミスリードする。 「思いこみ」を教えるセンセイのはずが、である。 だが「思い違い」を重ねることが探求というのである。 彼は最後の最後まで、「思いこみ」の可能性を探していた。 ■この物語は「思いこみ」で出来ている(その1) モナリザが微笑むこの作品のポスターなのだけれども、 キーになるのは「最後の晩餐」なのである、マグダラのマリア。 イエスの系譜の問題をともに、この物語の危険な構造は、 マグダラのマリアの中にあるのである。 エンターテイメントであるはずが社会問題に発展したのは、 ヌヴー捜査官が目を閉じたまま見た「最後の晩餐」の中に、 グラスがある、と「思い込んで」いたのと同じだろう。 ■この物語は「思いこみ」で出来ている(その2) かといってこの物語もフィクションである、当然のこととして。 ■最大の難関は登場人物の個性 ルーブル美術館での撮影を実現させたこの作品の関係者たち。 しかしながら大きな問題点が転がっていた。 この作品はラングトンを犯人と断定(思い込み)する、 ベズ・ファーシュが象徴であるのに、 アリガンローサに振り回されているだけの存在に。 オプス・デイの代表の司教である彼も、 その宗教が語られる暇が映画にないため意味を失いかけている。 ラングトンに至ってはミッキーマウスの時計もなし、 閉所恐怖症には触れるだけ触れてソソクサと次の展開へ。 名優トム・ハンクスがもったいないのである。 登場人物の弱い部分が際だつことは映画に深みを与えてくれる。 そんなこんなでソフィーさんとソニエール館長の 深い愛情も薄くなっているからこそあのラストシーンなのかも、と 思うのある原作はもっと、家族の物語でもあったから。 ■政治が宗教と女性を別のものにしたというはなし 大ベストセラーや大ヒットとなる作品で、 そのことに触れるのは良くも悪くも 大いに意味のあることだと思うのだ、うん。 ■秘密を守る必要性 原作と映画ではちょっと違うのである。 というか、原作にははっきりあるけど映画には あんまりなかったような気がする。気のせい? ※ちょっと触れてた、っていうか、 映画はすべてがちょっと触れてる感じかな? ■ポール・ベタニー!!!!!!!! ロン・ハワード監督はポール・ベタニーを知り尽くしている。 そんな気がするキャスティング、オイシイ役だけれども、 原作にあるシラスの物語を出番以上に過剰に表現していた。 アップもないし、顔も見えにくいし、後ろ姿や影も多いのに。 原作にあるシラスの物語がもういっぱい思い浮かぶのである。 その点ではトム・ハンクスもジャン・レノも 背後にある物語が見えにくくなっていた気がするのである。 ああ、もったいないけど、ベタさん万歳!(笑) ところで、よくよく考えるとよく出来た映画で、 ロン・ハワード監督はさすが、と思うのだけれども、 それがあんまりわかりにくい映画に仕上がっていると思うのだ。 私たちはもしかして サー・リー・ティービングになっているのかも知れない。 「何かもっとスゴイことがあるかも」と。 「もっと、スゴイものを」と。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[アメリカ映画] カテゴリの最新記事
|
|