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カテゴリ:アメリカ映画
何もかも社会のせいである。
何もかも国家のせいである。 何もかも、何もかも、何もかも、だ。 責任を全て自分以外になすりつけていった果てに、 サム・ビックという男が考えついたのは 悪いものを取り除くとことだった。 1974年、 リチャード・ニクソンが、 まだ任期中にも関わらず アメリカ合衆国大統領を辞任することになる、 少し前に事件は起こった。 事件ではあったし人命は失われたが、 サム・ビックの行為が ニクソンを辞任に追い込んだ一因ではなく、 ましてや社会や国家を変えたというわけでもない。 ただ民間機をハイジャックしてワシントンへ向かい、 ホワイトハウスめがけて撃墜しようとした、 その行為があの痛ましいテロと酷似していることのみが、 特異性と言ったところだろう。 ただ、この作品はサム・ビックが、 どのような経緯で事件を起こしたかが描かれ、 同時に社会が持つ一つの病理を浮かび上がらせている。 そもそもサム・ビックはセールスマンだった。 事務機具で埋め尽くされた倉庫のような場所で、 懸命に客に商品の説明をするが、 販売に結びつかず上司が横やりを入れてくる始末。 真の商品の価格や品質よりも、 セールスマンは売り上げを上げることが大事。 サム・ビックはそれがが受け入れられない。 売り上げは確かに必要、 商品の売買は経済、強いては社会を動かしている。 その社会と言えばテレビでは、 アメリカ合衆国大統領の不正を報道している。 その社会と言えば黒人を差別している。 社会は確かに正しくはない。 サム・ピックは社会に憤っていた。 社会は確かに、正しくはないけれども。 しかしそれは、妻マリーと別居することになり、 週一回しか子供たちの面会できないことも、 彼女がサムと再びよりを戻す気が全くないこととは無関係。 マリーが生活のためにカクテルバーで、 男たちの視線を浴びながらミニスカートで働いているのが、 気に入らないけれども だからといってどうなるわけでもない。 車の機械工をしている黒人のポニーが 白人に何を言われても丁重に対応する姿にいらつくが、 だからといってどうなるわけでもない。 だからといってどうなるわけでもない。 だからといってどうなるわけでもないのだけれども。 苛立たしいほどに何もできないこの作品のサム・ピックは、 本来、映画の主人公としての魅力は皆無だろう。 だがショーン・ペンが演じれば、 サム・ピックは時代の闇の象徴となる。 社会は確かに、正しくはないけれども。 マリーが生活のために働くことを受け入れている。 マリーはロクな働きのないサムにうんざりしている。 サムの上司は、サムのために、 口ひげを剃って好感度をアップさせようとアドバイスした。 現在の政治を批判するブラック・パンサー党に、 サムは共感して事務所を訪れるが、 いきなり訪れた白人に戸惑うしかない。 新しい事業を起こそうと中小企業庁に相談にいくが、 融資の許可の通知には時間がかかるし、 挙げ句の果てに許可は下りずに、 しかも友人で黒人のポニーが刑務所に入れられる。 そもそもはサムは詐欺まがいの取引をして、 トバッチリがポニーに来ただけ、なのだが。 何もかもうまく、いかない。 何もかも、何もかも、何もかも。 地元で兄の下でタイヤのセールスをしていたサム。 だが兄はうまくいったが、彼はうまくいかなかった。 結婚も、仕事もうまくいかなったか。 うまくいかないたびに、サムは苛立たしく 首をひねっているような顔をしていた。 一体、どうしてだ? 何が悪い? 責任はどこにあるのだ? 何もかも社会のせいである。 何もかも国家のせいである。 「自分は、悪くない。」 だから悪いものを断ち切ろうとした。 ただ民間機をハイジャックしてワシントンへ向かい、 ホワイトハウスめがけて撃墜しようとした、 しかしだからといってどうなるわけでもない。 尊い人命を数人奪ったが、 離陸することなく機内で射殺されてしまっただけ。 そう、だからといって 社会も国家も、どうなるわけでもない。 サム・ピックは全く自分を見失っていた。 何もかも、そう、何もかも、 社会や国家の責任にして、 自分の責任を全くと言っても追及していない。 自分の責任を追及したからとって、 どうなるわけでもないのではある、が。 選挙における一票の重みは確実にあるのである。 もしかしてサム・ピックは そんなに特別な存在ではないかも知れないと思うのだ。 責任の所在はつねに取引される。 経済もそう、政治も、戦争もそうだろう。 だが、全てが片側だけが悪いわけではない。 責任の所在がわかったところで、 どうなるわけでもないのだけれども。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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