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カテゴリ:アメリカ映画
キャプテン・ジャック・スパロウ。
ジャックは平凡な名前に雀がひっついて、 酔っぱらったように だがいつも踊っているように歩く男が踏みしめる地面は、 しっかりとした大地だった試しがない。 そこでも、ここでも、 そしてあそこでもだ、死の世界、 デイヴィ・ジョーンズ・ロッカーの中にいても 彼はまるで踊っているように歩いていた。 海賊を知るものに与えられるのは死のみ。 凄惨な処刑のシーンが冒頭から続く。 だが、一人の少年の歌が始まると その死の意味は全く正反対の意味をもつものとなる。 有無をいわさず老若男女問わず、 振りかざされた権力によって奪われていく悲惨な命だが、 それでも魂の「自由」だけは 誰にも奪えないのだと言っているようである。 そう、自由。 自由だ、自由と言う言葉が この作品にはとても良く似合う。 FREEDOM、拘束されないこと、 そして自由という文字は、全てが 「自」から始まることを現している。 「自」すなわち、自分、おのれ、一人称。 キャプテン・ジャック・スパロウ。 いつも船上で颯爽と皆の前に姿を現す時の彼は、 仲間に囲まれていた試しがない。 多くは一人で決断し、一人で行動し、 いつのまにか周囲が巻き込まれてしまっている。 ウィル・ターナー、エリザベス・スワン、 彼と出会わなければ違う人生を歩むはずだった二人は、 彼と出会ったから愛し合うことになり、 思いもかけぬ運命に放りだされてしまうのだ。 自由だ、自由。 海の上で波と戯れるように歩くのは キャプテン・ジャック・スパロウという男。 彼にとって誰が敵で誰が味方かということは もうどうでもよく、もちろん、 金や権力も彼を縛る力になるうるわけはない。 ただ行く手に何があるかわからないような 宝の地図だったり、隠された黄金だったり、 得体が知れなくともが胸躍らせるものを 彼の目の前にぶら下げればもうそれで一巻の終わり、 キャプテン・ジャック・スパロウは 航海に出てしまうのだ。 たったひとりでも。 何にも拘束されずに。 だから、自由だ。 自由とは「自」から始まることを現している。 たくさんのジャック・スパロウが度々現れて、 時には正反対の意見の言ったりしている。 ひとりの人間の中にはたくさんの「自分」がいるものだ。 その「自分」たちが一つの結論を出す。 誰にも頼らずに、 誰かの責任にすることもなく、 自分で決めて、自分で行動して どんな結果も甘んじて受ける覚悟を持つこと、 「自由」にはそんな厳しさもある。 だから自由を好まない人間がいる。 自由になれない人間もいる。 しかしどこかで「自由」に憧れるのだ。 合理性と権力を求めたベケット卿。 自分の地位をなかなか捨てきれなかったノリントン。 サオ・フェンやバルバロッサのしがらみ、 心臓をとられたデイヴィ・ジョーンズは不自由である。 ゴア・ヴァービンスキー監督作品。 活劇としての見せ場の多かった「1」や クラーケンとの戦いなど派手な映像の多かった「2」に比べ エピソードを詰め込みすぎた「ワールド・エンド」は スケールが小さくなっている。 だがこの作品の登場人物には息吹がある。 ウィルやエリザベスはゆうに及ばず、 ブラックパール号のクルーたちでさえも 物語の中で割り当てられた役柄を演じているのではなく、 それぞれが自分らしく生きているように見える。 ハリウッド娯楽大作の看板以上に、 しっかりとした中身を持っていると思えるのだ。 キャプテン・ジャック・スパロウ。 彼は父親に「人間が小粒になった」と漏らしていた。 世界は広がりはしないのだ。 怯えることはない、世界へと駆け出すのも自由。 だが、自由には厳しい結果も待ち受けている。 だが、何かに囚われることは悪ではない。 大地に足をつけてしっかり生きる人生は悪ではない。 そこから動かないと決めたのなら、 それもまた「自由」から決めたことに変わりない。 そうすると決めたのが自分である限り。 エンドロール後の映像にある 恋人たちのあふれんばかりの幸せが 全てを物語っているだろう。 キャプテン・ジャック・スパロウ。 彼は「自由」である。 だから私たちは愛してやまないのだと思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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