カテゴリ:礼拝
西野光生さんのお話。
自信がなかった自分が三育学院に行ってかわったこと。奥様との不思議な出会い。そしてこれからの自分について。心に残るお話であった。その光生さんは、月曜日に、千葉へ転居。久慈川教会の長老としての働きだけでなく、小学校の運営委員でもあった。 教会は、来年99周年を迎えようとしている。小学校は、それより40年後なので、59周年。少し、開校当時のことを調べてみた。 昭和24年4月1日に久慈川三育小学校は、開校。児童数は、12名。初代校長は須藤みね子先生。病気のために途中交代。その時、一緒に働かれていた教諭は、加藤敦子先生。 翌、昭和25年4月1日に中学校を開設(昭和44年に、北浦に移転)。教諭は、萩原久子校長先生と岩本和子先生。 昭和26年に初めて男の先生がやってきた。それが、光生さん。それまで久慈川三育小学校は、先生方が体調を崩し、授業にならないことが多かったそうだ。慣れない地での激務が原因であろうか。地元出身で男の先生を希望していたところ、当時三育学院で学んでいた光生さんに声がかかったようだ。 その後、全国の学校や病院で、教員として、事務長として働かれた。定年の後に、「どこに住むか?」ということで話し合いがもたれたそうだ。諏訪湖湖畔だと聞いている。奥様の親や姉妹のことを考えると、東京が第一候補地だったが、光生さんの故郷、久慈川に住むことになった。それから12年の年月が過ぎた。 今回の転居の一番の理由は、自分が先に死んでしまったあと、残された奥様のことを考えての転居だとお聞きしている。送別会のメッセージの時に、「12年間、遠回りさせてゴメンね。」と奥さんに声をかけていたのが心に残る。 光生さんは、文書伝道者として、茨城県内の学校を全て回ったそうだ。今度は、千葉県内を全て回るとおっしゃっていた。伊能忠敬みたいな方だ。教会・学校としては、とても残念だが、新しい生活にエールを送りたいと思う。 あまり関係ないが・・・。 深見じゅんさんの「ぽっかぽ14」に『春になれば』という話がある。定年退職された夫婦が別居を始める話。こちらもいろいろ考えさせられた。 「智さん このままじゃダメだよ。」 「?」 「こんなに毎日幸せだとまずいよ。」 「どうして?」 「キミがもし先に逝ったら耐えられない。」 「ボクはキミがいなくなったら生きていけない。」 2人で話し合った結果…。1年間、お互いが死んだつもりで別居することになる。死んだあとの練習だそうだ。 今の私には、到底理解できないが、その年になればわかるのだろうか? これからは、奥さんを大切にしたい(しているつもりだが…。)と思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.09.30 20:00:12
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