面倒見が良かった詮子
道長のお姉さんである詮子。先週は、源明子を道長の妻にと両者に薦めていましたね。道長の「今ですか」の素っ頓狂な声と、御簾を上げたらいるはずの道長がいなかったこと、笑ってしまいました。明子は、ゆかりもない自分を引き取ってくれた、というようなことを詮子に言っていましたが、実は従姉妹同士です。詮子は兼家の娘ですが、明子は兼家の妹(愛宮)と源高明の娘。ですから、2人は従姉妹同士なんです。 藤原師輔 | 愛宮 兼家 | | 明子 詮子すみません、横線が入れられなくて・・・兼家と愛宮が兄妹ね。 (C)NHK明子は、父が失脚し、亡くなった後、一時伯父である盛明親王に引き取られました(ここで、源明子から明子女王となります)が、この盛明親王にも死なれ、その翌月には詮子が明子を引き取っています。詮子は円融女御時代は中宮になれなかったことで、兼家が機嫌を損ね、詮子も宮中に上がらず、天皇とは疎遠になってしまいました。でも、息子一条天皇が即位すると、定子が3人目を産んだ時に薨去すると、その子を引き取って手元で育てています。自分が病気になった時、道長が(加持祈祷ばかりでなく)もう医師に診てもらいましょうと言うと、「医師に診てもらわなくてはならないようなら、生きている甲斐もありません」と言って、医師を呼ばせませんでした。平安時代に薬はありましたが、まず祈祷、悪い物を遠ざけることが、人々のメインだったようです。病中の詮子の懐には、定子の残した媄子内親王がくっついていて、一条帝がお見舞いに来た時に、「この子を抱いてあちらへお連れ申せ」と、侍女達に言っても、「いや」と言って、詮子から離れなかったとあります。とても可愛がっていから、媄子内親王にとっても大好きなおばあちゃまだったのでしょう。孫ですしねまだ道長の娘彰子が入内する前、定子はじめ女御達が3~4人いましたが、詮子は「どなたでも、お子を産んだ方をひいきしましょうよ」と言っていました。一条帝になかなか子供が出来なかった頃のことです。なかなか懐の深い女性だったように見えます。これは、後に道長の娘の彰子にも見られる性格です。また、詮子は明子を大層大事に育てたので、道長兄弟がどうかしてお近づきになりたいと言って寄越したが、詮子は誰にも簡単には許さなかったが、道長は明子の女房に話を通して、2人は仲良くなったとあります。詮子も、この弟なら心配ないだろうと、結婚を許したそうです。昔の家系図では、倫子も明子も「道長室(正妻)」です。今は、道長が倫子の実家である土御門第を継いだり、倫子腹の息子達を優先して出世させたり、倫子腹の娘は全員入内させたりと、扱いが倫子優位だったので、正妻を倫子と捉えることが多いようです。例えば、「源氏物語」の夕霧などは、雲居の雁1人が正室でしたが、後に女二宮を娶りました。二宮の方が位が上なので、こちらが正室になったかもしれませんが、夕霧はその性格らしく、律儀に月の半分ずつ両者の屋敷に通ったとありますから、これは両方が「正室」という扱いに当たるかもです。また、以前は「栄花物語」の影響か、倫子と結婚したおよそ1年後に、明子が道長と結婚したこととなっていましたが、愛宮が道長に送った和歌の内容から、明子と先に結婚していたとする説も有力です。倫子の方が先に彰子を産み、明子はその5年後から年子を次々産んでいるので、余計倫子と先に結婚したと思われるのでしょうね。 提供:菊田さん だそうです小麻呂ちゃん、かわいいですね大昔に飼っていた猫と同じ柄なので、好きですいつもポチっと応援ありがとうございますにほんブログ村にほんブログ村