晩婚 不幸の分かれ目? ネタばれ注意です
そろそろまひろと道長の恋愛にイラっとしてきたら、次回で別れることになるそうで、ちとホッとしたみことです。大体、道長のお父さんの兼家も、まひろの父と同じく受領階級の娘を妻としています。それが、道長の母や道綱の母達で、この中の道長達の母が正妻となっています。道長は源を妻に迎える意図があったようなので、そうなるとまひろは正妻にはなれませんが、普通に結婚出来ます。だから、制作者としては、まひろに道長の正妻以外は考えられない、と言わせるわけですね。次回まひろは、やはり道長の妾でも良い、と思うが、道長から結婚相手が倫子だと聞いて身を引く覚悟をし、2人は別れることになるそうです。また、大河ドラマではまひろが野菜を育てたりしていましたが、父の為時は職を解かれても六位の位は失っていないので、食べるのに困る程まで困窮はしないと思います。宮中に出仕出来ませんが、それ以外の仕事はあったと言われています。為時は中流貴族なので、裕福で豪邸に住むことはなかったでしょうが、ドラマのようなことはなかったはずです。さて、倫子は24歳と言う、当時としては考えられない程の晩婚です。これは、恐らく父雅信が倫子を花山天皇に入内させようと思っていたのが、大勢の女御が入内するわ、そのうちたった2年で花山天皇は退位してしまうわで、タイミングを逸してしまったようです。 (C)NHK今、正確な年代を見ていませんが、それにしても遅いかな。そして、紫式部も推定24歳頃宣考と結婚したと考えられています。こちらの大変な晩婚ですが、紫式部集を考察した人の説では、若い頃恋愛に破れた経験から、結婚に対して式部が臆病になったか、そもそも恋愛に対して奥手になっていたかもしれない、とのことです。しかし、父と一緒に越後に言った紫式部は、宣孝と文通を重ね、1年後に1人で京都に帰り、宣孝と結婚しています。 (C)NHK倫子は道長の子を次々と産み、そのうち娘は全員帝や春宮(=東宮 とうぐう)に嫁ぎ(従兄婚、伯母甥婚だらけ)に入内しました。面倒見がよく、行動も活発だった倫子は宮中にも気安く出入りしていたとあります。43歳頃最後の子である嬉子を出産、道長より高い従一位に叙せられ(道長が辞退して倫子に譲り、後に道長も従一位 臣下最高位)、90歳の長寿を全うした幸せな人生だったと言えるでしょう。対して紫式部。結婚2年で夫を亡くしてしまいます。また、一人娘である賢子に恵まれましたが、その頃から宣孝の訪れがなくなり、「おおかたの秋のあはれを思ひやれ 月に心はあくがれぬとも」(他の方に心を惹かれていらっしゃるのもごもっともですが、いつも悲しみに暮れている私のことも思い遣って下さい。たとえ私に飽きてしまったとしても)と書き送っています。また、撫子の花を見て、「垣ほ荒れ淋しさまさるとこなつに 露置きそはむ秋までは見じ」(父親の顔も見ず、荒れて淋しさが募っている撫子(=とこなつ 娘の賢子を指す)に涙の露が置き添う秋まで、私は生きていられそうもない)とも詠んでいるので、はじめのような歌を送っても、宣孝の訪れはほとんど無かったようなのです。2人の年齢差なのか、或いは紫式部の高い自尊心や賢さが、宣孝には鼻についたのか、宣孝に聞かなければわかりませんが、疎遠になりがちなまま、宣孝は亡くなってしまいました。短い結婚生活で夫を亡くしたのは不幸でしたが、その後程なく求婚者が現れたことが、式部の歌集から察せられます。しかし、傷心の式部は相手にせず、翌年同じ男性から和歌が送られても、好意を持てなかったようで、先には進まなかったようです。宣孝を亡くした後の悲しみから見て、式部は宣孝を慕い、関東地方の奥様方、地震で怪我などしませんでしたか❓最大震度5弱とか。風も強く、乾燥しているけれど、火よりまず身を守りましょうね。頼りにしていたことがよく伝わりますね。それでも、「源氏物語」を執筆し、彰子に仕え、最初は辛い宮仕えでも、後には彰子から絶大な信頼を得、遣り甲斐を感じることが出来たことでしょう。また、娘の賢子も彰子に仕え、紫式部の死後かもしれませんが、後冷泉天皇の乳母になっています(大弐三位)。「栄花物語」の中には、後冷泉天皇が風流なのは、大弐三位の育て方が良かったからでしょう、との記述も見られます。とても素敵な女性に育てたのでしょう。一時は悲しみに暮れ、自分は幸せになれない身だが、それでもそんな身を捨てきれない、と嘆いたこともあった紫式部ですが、大器晩成型とでも言いましょうか、中身の濃い人生だったのではないでしょうか。実資との結婚話がドラマ上では出るそうですが、後に彰子と実資の取次役になるので、この伏線❓大石静さん、面白いことを考えますね。いつもポチっと応援ありがとうございます🌸にほんブログ村にほんブログ村