カテゴリ:ウォーキング
「関ヶ原」 一度は行きたい関ヶ原 名古屋からJR特別快速に乗れば50分 停まる駅も7個目 なんだそんなに近かったんだ・・・ でも電車はギュウウギュウウスシヅメ 名古屋のヒトはウォーキング好きね それとも戦国ブームだから 着いた~近かったけど混んでた~ 駅からなかなか出られないぞー ということで JRさわやかウォーキングで「関ヶ原」にやって来ました JRさわやかウォーキングは25周年 スタート地点では記念イベントが開かれました。 さらにギュウギュウになって 今や遅しとスタートの合図を待ちわびます。 お祝いの薬玉が割られ 「さんぽ」の演奏に合わせて のろのろとカメの歩みでゲートをくぐり・・・ くぐり抜けられなかったので 次の曲 25年前のヒット曲「愛は勝つ」で ようやくくぐり抜けられました 誰だろう? 誰かわかんない武将さま方に見送られ出発です 25周年の記念品 先着4000名に関ヶ原の戦いのトートバッグ 先着4500名にボールペンがいただけました 早く来て良かったなぁ 最初はスタート地点すぐにある 徳川家康最終陣地 最初は桃配山の辺りに陣を張っていたいた家康が段々前線に出て 最終は此の地で戦いを仕切った場所 関ヶ原歴史民俗資料館 関ヶ原の戦いに関する資料が展示されています 関ヶ原合戦図屏風 これは隣のふれあいセンターの壁 関ヶ原のマンホール 関ヶ原の戦いは1600年9月15日 徳川家康率いる東軍7万4千と 石田三成率いる西軍8万2千とがぶつかった 天下分け目の大戦 とはいえ半日で勝敗を決した戦でもある まずは東軍の黒田長政、竹中重門の陣へ向かいます 結構な山道 クマさん出ないでね~チリンチリン 竹林が続きます 敵方西軍が陣を構えるのは右方 家康が最初いた桃配山はまだ左方 戦況を把握しやすい高台に陣を置き戦機を見てここから烽火をあげた 竹中は合戦当時の関ヶ原の領主でもありました 中田池 八幡池と自然豊かな緑を眺めながらの道 関ヶ原の戦いで一番の激闘が繰り広げられた地区 小早川の寝返りで東軍優勢となり 石田三成の首をめがけて東軍諸隊が 三成の陣のある目の前の笹尾山に突進したため 此の地で激闘が繰り広げられた 10月15日、16日は「関ヶ原合戦祭り」 石田三成と大谷吉継がポスターになっていました イケメン過ぎませんか 笹尾山交流館では鎧兜の試着体験なども行われており 戦国グッズも売っていたので 石田三成の旗印のついたメモ帳と定規をお土産に 石田三成の家臣島左近の陣跡では 関ヶ原合戦のろし体験として 生の杉の葉を燻して煙筒から狼煙をあげていました そしてパンッという耳をつんざく大砲の音が時折聞こえていました。 正体はコレ 竹の節を抜いたところにガスのカートリッジを差し込み トリガーを弾くと・・・パンッ あぁ~わかっててもビックリする音が でも興味津々 やってみたくてトリガー弾いちゃいました 反動と衝撃がスゴカッタデス 三成の陣へ向かう笹尾山への登り口 関ヶ原の合戦図屏風に描かれた石田陣営 (先ほどの戦国グッズを買った場所にあったレプリカの画像です) ここも素晴らしく見晴らしの良い場所です 東に家康が最初に陣を置いた桃配山 眼下に先ほどの決戦の地 山を背に西軍が陣を張っていたのだと解ります 鶴の翼と書いて「かくよく」の陣形というそうです。 大阪からの援軍をあてにした長期戦も視野にいれた陣形 高台の見晴らし台では 足軽の格好をした解説のお兄さんが 陣のあった場所を槍で指示してくれます イマは平和で ソバの花が秋の爽やかな風に穏やかに揺れる此の地も 416年前は合戦の地だったのですね・・・ そこから0.8km西に向かったところに 西軍島津義弘、豊久陣跡(1500) 開戦前夜 夜襲策を主張するも三成に受け入れられず 開戦後は攻めてくる敵は打ち払うも三成の加勢要請には応じなかった島津隊。 小早川の寝返りで戦況が一変すると 島津隊は東軍の中央を敵中突破し見事伊勢街道へ脱出に成功。 その道中 義弘の甥にあたる豊久は 義弘を救うべく身代わりとなり討ち死に 話は遡ること数時間前の朝8時。 先鋒の東軍福島正則に先駆けて松平、井伊隊が発砲。 怒った福島正則が宇喜多秀家隊に向かって ここで一斉射撃を仕掛けた それが関ヶ原の戦いのはじまり そこからあまり離れてない北天満山に陣取っていたのが 西軍小西行長隊(4000) 合戦開始の烽火をあげて味方に開戦の合図をした 天満神社の境内に 西軍の主力部隊宇喜多秀家隊(1万7千)があった。 開戦直後から攻め込まれ激しい戦いになった場所と言われている 関ヶ原って広大な原っぱがあって・・・ そこに陣を張って戦いをしてたもんだとばかり思ってたけど たぶんそれはドラマのイメージで 実際来てみると鬱蒼とした森の中に陣があったりして あれから400年以上も経っているのだから 木も成長したりして 鬱蒼とした森の姿は当時とは違うのだろうけど・・・ 思い込んでいた関ヶ原のイメージとは ずいぶんとかけ離れていて驚いてしまった。 攻める時はいいけど追い込まれたら こんな山ん中では隊も散り散りになって逃げ場もないよね・・・ 次に向かうのが大谷吉継隊の陣営 藤古川ダムを渡ります 車道から入って 木の根も張り巡る山道を登ります。 大谷吉継は病身を押して盟友石田三成への義を貫くために参戦 歩けない吉継は輿に乗っていたという。 輿を担ぐ家臣も大変だっただろうなぁ・・・ そして そんな大谷吉継が目を光らせて見張っていたのが 前方の松尾山に陣取る 小早川秀秋 最初から見せる不穏な動きに目を光らせていたので 寝返りにも動ぜず 攻め込んできた小早川隊に応戦するも 配下の脇坂隊からも攻撃を受け徐々に後退 0.3km離れた山中に追い詰められ あえなく自害 家臣の湯浅五助は大谷吉継の首を埋め隠したが 藤堂仁右衛門に発見され自らの首と引き換えに他言を阻止した。 その忠義に感心した藤堂が合戦後に墓を建立したといわれている。 東海自然歩道でもある山林を抜けると 中山道 裏切った脇坂の陣跡を過ぎ ダム湖の下流、藤古川 藤古川(関の藤川)は 壬申の乱があった古来より歌枕として 多くの歌人によって詩歌として詠まれたという 「美濃国 関の藤川 絶えずして 君につかへむ 万代 (よろづよ) までに」 不破の関はお雑煮の角餅、丸餅の境目でもあるよう 元は豊臣秀吉の近臣であった福島正則 石田三成と対立し東軍へ 6000の軍を率いて宇喜多秀家隊を突く 里芋が大きくなったな。茹でて食べようか 藤堂高虎(2490)京極高知(3000)陣跡は 現関ヶ原中学校敷地内にあり 西軍 平塚為広隊(1500)と交戦した しゅうめいぎく 関ヶ原たまりの醸造所近くに 東軍の猛将 本多忠勝(500)隊の陣跡あり 軍監として参戦し島津隊へ進撃し西軍武将の切り崩しも務めた 東軍 松平忠吉(3000)、井伊直政(3600) 隊 先鋒福島正則隊を出し抜き宇喜多隊へ発砲し開戦の口火を切った 島津隊を追撃して戦果をあげる そしてスタート地点へ ゴーール 約9.1kmの距離を5時間近くかかったなぁ 思ったより暑かったし 足場の悪い道も多かったので結構ばてました 昔の人はわらじで歩いて戦って体力あるよね~ さぁオマケオマケ 気になるのは裏切りたこ焼き たこ入ってないとか・・・まさかね~ はいこちらこちら やっと食べられました近江牛おいし~ そして会えました いしだみつにゃん、しまさこにゃん おおたににゃんぶはいにゃかった アタマににゃんか刺さってるしぃ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.10.16 18:33:37
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