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カテゴリ:英語教育-1
一口に英語を習わせると言っても
いろいろな形態があり、レッスンがある。 それぞれの講師が、経営者が、自分の理想に基づいて レッスンを作り上げていくのだから、違って当然だし、 教室の良い、悪いは、受講者や受講者の親 すなわちお金を支払う人(客)が決めることだ。 英語教室とて客商売、 お金を払ってくれる人がいて成り立っている商売である。 当然、レッスンに支払う価値があるのか、ないのかによって 通う、通わないが決まる。 すべては、支払う側の価値観で決まるのだ。 親が教えられる、教えられない、 教室に通った方がいい、そうではない、という以前の問題として 私は、学習には、You的他者である第三者の存在があった方がいいと考え その意味から教室には通うことをお勧めしているが、 You的他者、第三者の存在は、我が子の英語習得に必要なし、と考えれば 教室に通うことはないと思っている。 私は、講師はYou的他者でなければならないと考えている。 You的他者とは、わたしを「あなた」と呼んでくれる他者、 わたしを「かけがえのないひと」としてくれる人だ。 その生徒の「存在」そのものを肯定し、生徒の背景、 生徒の主張の根拠、理由、必然性に耳を傾ける他者になる。 You的他者である講師は、生徒とともに、文化的実践(THEY世界)を見て、 “知”そのものに随伴する「よろこび」、「悲しみ」、「怒り」を 「ともにする」(=情緒を“知”から切り離さないで、鑑賞する)存在であり、 生徒の「納得」(腑に落ちる=情緒のレベルに響く“知”)を大切にし、 本当の世界(未知)への「あこがれ」と「好奇心」を駆り立てる為に存在するという という考えを持って生徒と接している。 これは私だけではなく、多くの先生が心に持ち 指導に臨んでいることだと思う。 もちろん教える人の指導力によって、 力のつき方が違うのは当然で、 子どもにどのくらいの力をつけたいかで、 英語を習わせる、習わせないが決まる場合もあるだろう。 私の教室は、教室でしかできないことを教室で 家庭でできることは、家庭で、と 講師と親御さんとの二人三脚、分業形式で指導しているので、 教材を使って家庭だけで学ぶのとは、 全く違う体験・学習をさせていると思っているが、 そこに月謝を払う価値を感じていただけなければ、 通うに値しない教室であることには違いない。 しかし、それは私の教室が、その人のニーズ、価値観に合っていなかった ただ、それだけのこと。 悪い教室ということにはならないはずだ。 高価な教材を購入して自宅で学ぶより、教室に通った方がいいかどうかは、 その人、その人の状況と価値感で判断すべきこと。としか言いようがない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年07月21日 01時49分41秒
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