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カテゴリ:英語教育-1
静岡のワークショップを主催してくれた
mixi夢玉教室のメンバーのブログに レッスンに参加したお子さんたちのようすが書かれていた。 引っ込み思案な年中さんが、 「もっといっぱい英語を話したいと思った。」 という気持ちになってくれたことは 講師としてなによりも嬉しい。 レッスンのアクティビティが楽かったというより わかったことが楽しいという気持ちが 表れた言葉だと思う。 日本人が日本語が聞けて話せて、 読めて書ける事に「楽しい」と思うことはない。 英語も母国語のように身につけてバイリンガルに育つと、 英語を話せることは普通で楽しい必要は無い という考えの指導者がいらっしゃるようだが、 私は賛同できない。 初めて自分の名前をひらがなできちんと書くことができた時 親に褒めてもらって、私はとても嬉しかったし、 親の手を借りずに、るびなしの本を読めるようになった時も とてもうれしかった。 それまでできなかったことが、練習してできるようになった時 嬉しくて、練習が楽しくなるのは当然のことではないのだろうか? 「楽しい」は変化するのである。 幼児にとって楽しみの中から学ぶことはとても多い。 だから幼児の遊びの要素を取り入れて学ばせることは、 英語に限ったことではない。 母国語である日本語だって同じである。 しりとり、かるた、もそうだ。 そして成長するにしたがって遊びが「楽しい」のではなく、 できなかったことができる喜びが「楽しい」になる。 「無理強いはさけよ。 初期の教育は楽しみの形をとることだ。 幼い子供は、遊びから学ぶ。 強制的な教育は魂に残らない。」 これは古代ギリシャの哲学者であるプラトンの言葉だ。 3000年以上前から語り続けられている言葉に ずっしりとした重みを感じるのは、私だけだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月02日 15時22分38秒
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