駄心・1
こんな言葉を創ってみた。ワシ流では「心」そのものがロクデナシと説明する。だが、世間は「心」を一人前として扱う。バカな子(心)ほど可愛いがるのは理解できるけど、心を買いかぶっては迷惑を撒き散らすだけなんだ。アホだから可愛いのだ。キチンとアホに観える目と優しさを持ってくれ。まぁ表現の仕方なんて何とでもなる。ブッちゃん(仏陀)だってウソ(方便)で説明した。だから、ここでは「心」の中にあるクダラナイ部分(煩悩)を指す。煩悩だけで創られているのに、今更「駄心」もないだろうにねぇ・・・。そういうと、マジメな人は反感を(ワシは買わないが)売りつける。「クダラナイのはお前(ワシ)の心だ!」これは正しい指摘だと思う・・・。大前提の認識が違っているようだ。ワシは煩悩が好きだし、悪いとは思えない。クダラナイのは愉しいし、優しい深さを感じる。アホは可愛いし、哀しい深さも持っている。だから「生きている」賛歌の意味で使っている。ワシはマジメで偉い人達の言う事よりも、キリちゃん(イエス)やブッちゃんの言葉に直接共鳴する。人間は「ロクデナシの心」の塊だと知って、「愛する」「愛しむ」大切さを示した。キリちゃん(イエス)やブッちゃんはとても優しい。宗教関係者は誤訳し、誤解して伝えていると思う。マジメで偉い人達は「煩悩」は正さなくてはならない。乗り越えなくてはいけないとしている。つまり「間違い」は「悪い」という認識だ。「生き方」を生命の賛歌より「正誤」にこだわった。「間違って出来ちゃった!」妊娠は多い。間違いは悪いのか?マジメで偉い人達の大部分も、間違って妊娠し、この世に生まれたのだと思うぞ。しかも、自分も同じ行為をしてないか?(ハハハ)間違いは「正しい」かどうか知らないが、(スゴイ矛盾している文章だねぇ。面白い!)間違いは「当たり前」だと思うぞ。「愛する」対象であり、非難する対象ではない。間違いくらいで、バタバタ反応するなよなぁ。「心」との付き合い方は「正誤」が基準じゃない。「正誤」を基準にした生き方からは、「多くの苦しみ」と「傲慢」が創られると思う。自他共に苦しむ世の中は、ヘンだと思わないか?「正しさを求めないと、人間が堕落する」そう主張した世の中には苦しみが充満している。苦しみだらけを創る人間の方が「堕落」してないか?心の弱い(敏感な)人に優しくないと思わないか?(宗教関係者の勧誘が珍しく来たので、今日の雑記テーマが出来ました。ありがと。)