「迷説般若心経・115」
第十章(3) 無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽迷いや閉塞感の「無明」だ。そんなのは、日常生活で普通に起こる。闇の中で迷いながら、アチコチぶつかりながら生きている。それも含めて、生活する、暮らす、という事だと思う。それだけでは苦しい、淋しい、辛い。苦しむ為に生きているわけじゃない。「無明」を否定しても解決しない。現実(生活)的ではないからだ。無明から脱却しなさい、なんていうのは寝言だ。そんな事を真顔でいう宗教家は詐欺師か(厚顔)無知だ。「無明」を抱きしめる。それをブッちゃん(仏陀)は「慈悲」と言ったのだ。だから「無無明」は肯定の言葉だ。「無明」に「こだわるなよ」と言った。更に「無明」も愉しめるぜ、と言った。バカ(無明)は可愛いと思える心。それが仏教の真ん中にある「慈悲」だと思うぜ。