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テーマ:あなたはどう思いますか?(12)
カテゴリ:自分でいること・欝など
はっきり言わせてもらうが、人は様々なことを考える生き物であるが故「生きる」ということは素晴らしいが苦痛である以外何物でもない。苦痛であるという事実は絶対変えられない。そこで、人々はその苦しさを紛らわす為に自分に「自信」をつけようとする。その「自信」は家族・他人からの無償の愛情や自分・他人に対する償いなどいろいろな所から積み立てていくことができるが、また別に自分と違う人や物などを卑下することによってそれを自信にする人もいる。いいや、世の中にはその方法で生きる苦痛を忘れようとする人は五万といる。彼らがもし卑下することを止めてしまえば、考える生き物であるがゆえに生きる苦痛は何倍もの重みになってその一人一人に圧し掛かり生きることはもっと辛くなる。
中学や高校に通っていたある時まで、私は毎日「死にたい」と思っていた。 生きる意味は見つけられなかった。勉強は好きだったが、なんで勉強するのか分からなかった。自分が将来誰かと結婚し、家庭を築いてただ延々と自分の人生を続けていくぐらいなら、私一人死んでも何も変わらないし変わらないなら生きても死んでも同じだと思っていた。そうであれば死んだ方がなんとも楽か、と怠惰にそして真剣に考えていた。 それでもそれなりにすくすく育ち高校生活も半ばになった頃、クラスメイトが一人白血病で亡くなった。彼女は学校でも明るく活発な子で生きていたらいくらでも将来の可能性がある子だった。彼女は「生きるべき」人だったのにと私は心を痛めた。なぜ私みたいな「生きてもしょうがない」人が生きて、「生きるべき」彼女のような人が亡くならなければならなかったんだろう。「生きるべき」彼女が生きられず、死にたいと思っている私に「生きる」という選択が残された。彼女には無かった選択が、私には残った。生きている限りいろいろな選択はできるけど、最初から「生きる」という選択が無ければそれ以上何も選んでいくことはできない。彼女ができなかった「生きる」という選択を私も放棄してしまったら、それはまるで高価で輝く二つのダイヤモンドを一つ残さずそのまま火の中に投げ入れて捨ててしまうのとほぼ同じことではないか。「生きる」と言うことは驚くべき選択で恵みではないか? もう一度はっきり言わせてもらうが、どんなに経済的に良い暮らしをしても悪い暮らしをしても、いいことをしていても悪いことをしていても、過去にどんな良いことをしようと悪いことをしようと、人は考える生き物であるが故「生きる」ということは苦痛である以外何物でもない。そしてそれは、背の高さにも、体の状態にも、肌の色にも、生まれた場所にも、何にも例外なく人として「生きる」限り平等に感じる苦痛だ。自分ひとりが受ける苦痛ではない。 同じ苦痛を受けて「生きる」と言う選択があるのなら、それはどういう「苦痛」を受けるかそれも各々の選択の中に入っている。どうやって稼いだ金を保管するかと考える苦痛もあるだろうし、どうやったら彼女と寝れるか、どうやったら彼の心をつなぎとめていられるか、あいつを陥れるか、あの国をやっつけられるか、子供を頭良くさせるか、自分がきれいになれるか、買いたいものを買えるか、借金を返すか、仕事を見つけられるか、親を介護できるか、どうやって死ぬか。あげれば切りがなく人それぞれでそれが普通であり、なんにせよ「苦痛」であると言うことが共通点だ。そしてその「苦痛」とそれを克服する「自信」をどう付けていくかが私達の選択だ。 私が選んだのは、それによって人は平等であるが故全ての「生きる」ということを平等に見ようと考え続けるという「苦痛」だ。「生きる」という選択を持ったダイアモンドを火の中に投げ続けたり、そのダイアモンドが選択しているひん曲がった行動や性格を正そうとせずそれ自体を卑下し叩いてしまった方が簡単だ。とても簡単だ。でもそれを敢えてしないのは、「生きる」という恵みを自分が持っているという「自信」、そしてダイヤモンドが同じ「苦痛」を持っているんだという「自信」があるからだ。生きる「苦痛」は人と人との繋がりで減る。そして人は新たな選択をしていくのだ。 ---この日記を私の師匠Dan LaBranche先生と今は亡き16歳だった藤田と、25歳だったエリックと、54歳だった佐々木さんに捧げます。いつまで経っても忘れてないからね!--- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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