今日は、仕事でまた落ち込みながら家に帰り、親に愚痴をこぼしながら、教会の祈祷会に行きました。
私の心の中にある、なんで神様があそこに私を遣わしたんだろう。どうして??という気持ちが今ブログを打っているときでもありますが、だけど今日感じたのは、神様の愛でした。
教会行って、聖歌を賛美していたら、最初からウルウル・・・。とくに聖歌604「のぞみも消えゆくまで」という賛美を歌っていたら、涙がこぼれそうでした。
望みも消え行くまでに世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み
なが心はやすきをえん 数えよ主の恵み
数えよ主の恵み 数えよひとつずつ 数えてみよ主の恵み。
悩みがあっても、変わらずに主の恵みは注いでくださる。だからこそ、主の恵みを数えてみたいと改めて思わされました。
それと、いつも学んでいるウェストミンスター信仰告白。今日はイエスキリストについてでした。
内容は
神様は、この世界を創造されたよりずっと以前に、ひとり子イエス様を神様と人間との間の仲介者としてこの世に遣わすことを計画をされて、イエス様を信じるという計画の下、導かれて、信仰告白をして、罪を気付くことができ悔い改めをし、だんたん聖化されて、天国に入ることができ、永遠の命をもらうことができることをこの世を創造されたときよりずっと前から計画をされていた。
イエス様は、神様と同じ実体で、神様そのものなんだけど、時が来た時、人間と同じ姿をとること。しかも誘惑や弱さを持って、人間である、処女マリアから聖霊に、満たされて生まれてきた。だけど、イエス様は誘惑や弱さに絶対負けることが出来ない方。そして、罪を犯さないお方。そのお方が私たちと神様の仲介者である。・・・ということでした。
わかっていても、学んでいたことをやさしくすることが難しい・・・・。意味不明だったらごめんなさい。
要するに、イエス様は神様でなくって、もし人間で何でも出来ちゃう人でこの人を信じなさいと言われたら自分は本当に信じることができるのか・・。
私は絶対に、信じないだろうな。
だって、その人を追い越そうというハングリー精神や、心満たされない日々、だれに罪を許してくれるのか・・。孤独に感じる日々・・・。
イエス様が神様だから、この身で恵みを感じるから、神様が私のことを愛してくれるから、絶対この人を越すことができないから、イエス様はずっとともにいてくれれうから、私は信じていくことができた。
今、不安な日々がだけどなぜか平安で満たされている。それは神様を信じているからだ。
この不安はいつなくなるかわからない。体に現れてくるかもしれない。だけど、この先どうなっても私はずっとイエス様を信じていたい。神様の愛に応えて生きていきたい。私が今与えられている悩みなど主に委ねたい。私が今思っている想いがたとえ主の与えられた想いじゃなくても主にしたがって生きたい。傷ついてもいい。ただイエス様を信じていきたい、