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テーマ:政治について(20202)
カテゴリ:戦争と平和
~平和と福祉の社会を目指す運動家~ ●湖山寛一氏死す 第997回 2007年12月18日 私の元上司の湖山寛一さんが亡くなられました。 湖山さんと出会ったのは昭和五十年秋の米沢市長選挙でした。その選挙事務所におられたのがきっかけで、それ以来のお付き合いです。 私にとっては父のような存在でした。 そんなご縁で今回の神葬祭(しんそうさい)の葬儀委員長を努めさせていただくこととなりました。 その祭事は12月16日午後2時から行われ、私が故人の近況と同時に功績を紹介いたしました。 ここでそんとき述べた私の言葉を掲載させていただきます。 湖山さんは十年前から前立腺癌と診断され治療されてきました。病状悪化のために八月三日米沢市立病院に入院しました。 ご家族、ご親戚の日夜を問わぬ献身的な看病にもかかわらず、十二月十四日午前二時三十三分に安らかに眠るように息を引き取られました。 七十九歳の生涯でございました。 湖山寛一さん、あまりにも早い旅立ちに驚いております。 ここに集う皆様は湖山さんの突然の旅立ちに戸惑っておられる方々ばかりです。 湖山さんにこの一月に、 「僕の身に万が一の場合があったら、君が葬儀委員長をして感じているままを述べてくれ」と言われました。 湖山さんのご希望にそって、私が感じているままのことを述べさせていただきます。 あなたの政治と社会運動の信条は 「平和と福祉」でした。 とてもわかりやすく立派な信条でした。 湖山さんは戦中時代、真岡神社宮司(ぐうじ)であるお父様たちと樺太(からふと・現サハリン)真岡(まおか)で暮らしていました。 その時に湖山さんの生涯にわたる平和主義の思想が体験的に生まれることになったのです。 それは昭和二十年八月十五日の終戦後から五日後目の八月二十日の出来事でした。 霧の深い早朝、突如、ソ連艦隊が真岡の町に現われ、艦砲(かんぽう)射撃(しゃげき)を開始しました。 町の中は戦場と化し、当時十六歳だった湖山少年とご家族もその渦の中にいたのでした。 ソ連兵の銃は湖山少年を撃ち、その場に倒れ、どこかに連れ去られてしまいました。 お父様はもうこの世に息子はいないと思い、神社の裏の丘で割腹自殺をされました。 湖山少年の右腕には弾丸が貫通しましたが、病院に運ばれ一命は取り留めていたのでした。湖山少年の命は助かっても、大事なお父様の命は戻ってはこないのでした。この時に十万余の命を失ったといいます。 多感な少年時代にあまりにも悲しくすさまじいこの体験が、湖山さんの平和思想を作られたのでした。 また、戦後、米沢に帰られてからは、諏訪神社の宮司(ぐうじ)となり、諏訪神社の四百年の歴史を守りながら、南原の住民のしあわせを祈られていた毎日でした。一方では市職員として社会福祉の任務に就き、貧しさゆえ、苦しい生活をしている住民たち、病気で苦しんでも助けられない実態などを目の当たりにして、湖山さんの正義感から福祉の充実と住民の生活力を上げていくために労働運動に参加していくのでした。 このようにして自立した市民社会を作る使命感が生まれたと聞いております。 湖山さんの市政に対する功績は偉大なものでした。私が知るその一編をご紹介いたします。 湖山さんが市議会議員二期目の昭和五十年の時、自らが師と仰ぐ長俊英さんを米沢市長にするために立ち上がるのでした。 名もない市民の草の根選挙は見事に現職に大差をつけて当選させました。 しかし長市政誕生を待っていたのは、予想以上の財政ひっ迫の現実でした。 米沢市職員と米沢市職員労働組合の理解なくしてことは運ばないと湖山さんは一緒に働いた仲間たちと徹底的に話し合いを行ない、市民に直接傷を負わせないためにも、早期解決策として赤字再建団体の申請を決断するのでした。 市民と議会と市職員が一丸とならなければ、計画より早く赤字が解消されることはなかった。時期的にも長市政を誕生させてよかったと後に述べられた湖山さんの言葉が忘れられません。 長市長と共に身(み)を粉(こ)にして働かれました。 長さんは「湖山さんはいずれ市長になる人」と自分の後継者と考えておられたようです。 当然、私たちもそれを望んでおりました。 しかし、残念だったのは健康を害され、県会議員で終られたことです。 議員引退後は南原地区の皆様のために働かれました。それはお世話になった地元南原の皆様への感謝の意でした。一方では憲法第九条を守るために平和運動を展開されました。 病床に臥してからも意識が薄れる中で、 「千葉くんはどうしている?」 「知事が来るから芳泉町の施設建設の件は井上理事長に任せたから、おれの代わりに行ってくれ」、「市の財政は大丈夫か?」、「市立病院の経営をどうしたらいいのか、おたくの考えを訊かせてくれ」、「それでおれはどうすればいいのかな?」 先日の市長選挙では「安部市長は大丈夫か、野村くんはどうしている?」 と最後まで県政と市政に関心を寄せ、平和と福祉の充実を祈る湖山さんでした。 湖山寛一さんは生涯を市民の平和と福祉に貢献されました。市民を代表して湖山寛一さんに御礼を申し上げ感謝のご挨拶とさせていただきます。 ありがとうございました。 二〇〇七年十二月十六日 (文中の敬称を略させていただきました) ~平和と福祉の社会を目指す運動家~ ●湖山寛一氏死す 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年12月18日 23時11分40秒
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