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丁寧な暮らし

丁寧な暮らし

2020.10.25
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カテゴリ:歴史

雪風に乗った少年を、読んでいます。
大和の最期、武蔵の最期、これらを見届けた西崎さん。

大和の最期を読むと、沖縄の海軍壕で、最後まで戦った大田中将と重なります。
沖縄戦も、本土に米軍が侵攻するのを少しでも遅くするためだけの捨て石。
大和も同じ使命でした。
大本営の作戦は、すでに狂気。
大和は、沖縄までいき、沖縄の陸に座礁させ、砲台として、使うというものでした。
それに、伊藤整一連合艦隊第二指令長官は、反対していたそうです、
しかし、草鹿連合艦隊参謀長より、
「一億総特攻の魁になっていただきたい」の
言葉をうけ、命令を受諾しました。
サイパンが、陥落した時点で、地政学的には、もうアウトだったはず。
現場のわからない参謀どもの愚が引き起こした悲劇です。

4月6日、午後3時20分
大和にZ旗が揚がり、銅鑼がなりました。
10機の特攻艦隊は、沖縄を目指して出撃しました。

大和を中心にした輪形陣で、大和前方に
矢矧、そこから右周りに 磯風、浜風、雪風、冬月、涼月、初霜、霞、朝霜が、それぞれ40度の角度をとり、大和と1500メートルの距離をとって円を描き西にすすみます。
沖縄の天気は、曇り
低い雲では、大和の主砲は役立たず。
勝負運のない天気である。
更に、護衛機のない、艦隊だけの、裸の艦隊である。玉砕を覚悟した葬送にも近い隊列であった、

ヤマトが沈没したのは、
昭和20年4月7日 午後2時23分
北緯30度43分17秒
東経128度04分00秒
鹿児島県坊の岬沖

大和は、執拗に左舷を攻撃され、艦が傾くよう仕向けられ、転覆した。

その後、轟音とともに、大爆発がおこり、
大和は、真っ二つにおれた。
折れた船体は、たてに聳え立つやいなや、しぶきをあげて、海に沈み始めた。
船体が沈むと同時に今度は大海原に、大きな渦巻きが巻き起こった。
そして、大和から投げ出された兵士たちも、破壊した船体の破片も、大和の周りにあった全てのものが巨大な渦にまきこまれ、海のなかに、ひきずりこまれていった。
爆発が起きてから、あっという間の出来事であった。

大和の乗組員 3332名のうち、
生存者は、わずか276名
伊藤整一指令長官
有賀幸作艦長も、大和と運命をともにした。

伊藤整一指令長官の逸話がある。

伊藤長官は、連合艦隊のなかの、「矢矧」に乗員していた十数名の少尉候補生たちに、ある訓示を与えたのだ。

「候補生諸君、この決死の出撃にあたり、
深く諸君らの将来を思うとき、若く有為な人材をむざむざと、死地へ追いやることは、忍びない。よって、諸君らは、直ちに本艦から退艦し、その若い力と能力で祖国日本の繁栄に努力されんことを心から願う
ものである」

少尉候補生たちは、抗議をしたらしいが、強制的に「矢矧」から退艦させられた。
むせびなく候補生たちに、ほかの将兵たちが、「日本国を、頼むぞ」と、送別の言葉をかけていた。
特攻出撃の前の感動的な場面に、たちあった、と、西崎さんは語っています。

大和
排水量65000トン
全長263、0メートル
最大幅38、9メートル
最大速力27、46ノット
主砲45口径46センチ三連装三基九門
主砲射程距離42000メートル
主砲塔重量2779トン
乗組員数2500人(3332人)
建造費一億三千七百八十万二千円

昇降はエレベーター
浴場は20畳
海水を沸かして真水にするきのうをもち、シャワー室
洗濯機
冷蔵庫完備
自家製アイスクリーム、サイダー、ラムネ
などが、備蓄されていた。
「大和ホテル」と、揶揄する人々もいた。

大和を護衛した艦は、帰還、沈没、明暗は
別れた

巡洋艦 矢矧 4月7日午後2時5分沈没
乗員数 949名 戦死者数 446名
戦傷者数 133名

駆逐艦 冬月 帰還
乗組員数 450名
戦死者数 12名
戦傷者数 12名

駆逐艦 涼月 帰還
乗員数 450名
戦死者数 57名
戦傷者数 34名

駆逐艦 磯風 7日午後10時40分 沈没
乗員数 364名
戦死者数 20名
戦傷者数 54名

駆逐艦 浜風 7日12時48分 沈没
乗員数 357名
戦死者数 100名
戦傷者数 45名

駆逐艦 雪風 帰還
乗員数 350名
戦死者数 3名
戦傷者数 15名

駆逐艦 朝霜 消息不明 沈没
乗員 326名 全員戦死

駆逐艦 霞 7日午後4時57分 沈没
乗員 331名
戦死者数 17名
戦傷者数 47名

駆逐艦 初霜 帰還
乗員数 327名
戦傷者  2名

巡洋艦矢矧は、陣形上、艦隊の、ある意味、殿をつとめていた。
大和に次ぐ大型艦だったため、大和なみの集中砲撃をうけた。
矢矧が、砲弾を受け続ける姿には、涙を禁じ得ない。

艦長の原は、死ぬなよ、生きて帰るぞ、といいつつも、大和以下、他の艦への攻撃をさけさせるための、ぎせいになる覚悟があったのだ。

この作戦「海上特攻」は、神重徳大佐が、参謀長草鹿龍之介中将を通さずに豊田副武連合艦隊指令長官から、直接採決をうけたものだ。
豊田は「大和を有効に使う方法として計画、成功率は50%もない。
うまくいったら奇跡
しかし、まだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した』との談を残している。
海軍にも、馬鹿はいました。

矢矧の沈没ご、数分のちに、大和も沈没。
大和の爆発のさいには、キノコ雲があがった。

西崎さんは、当時18歳。
雪風のなかで、足を負傷しながらも、
帰還できました。
西崎さんの目線は、公平で、優しい。
船底で働く機関科の方々へのリスペクトに
位だのを越えた本質を見る目が感じられた。
まだまだ、雪風、感想あります。しっかり読み、無念でなくなった方々が、こんなにもいたことを、しっかり胸に刻まねば、と。





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最終更新日  2020.10.27 21:07:47
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