色々あった2024年3月
父が他界し1周忌実家のある別府に帰省母が看取り看護になったこともあり施設で母との面会が可能になった。体温は低く、体をさすり、声をかけると、なんとか声を出そうとしてくれる。1年前は父のお葬式の前に、亡骸の父と対面し父との人生に悔いはないと元気だった母。1年でこんなにも違うのかと、目を疑うようだった。母は父に一目ぼれで、子供のいる父(父は二度目の結婚)と結婚。父に、おまえのために結婚したんやと、私は、以前言われたことがある。母は、自分の子供ではない私をとても可愛がって育ててくれた。時には厳しい時もあったけれど、それは、継母ということではなく本当の娘として、接してくれたと私は思っている。しかし、それを父は本当の娘じゃないから叱っていると思ったことも多々あってとても仲のいい夫婦だったけど、その時ばかりは喧嘩が絶えなかった。そんな母が父と同じ日、父が亡くなった年齢と同じ年齢で亡くなった。。。ほんとに仲のいい夫婦。父の法事を終え、大阪に帰って翌日仕事をしていたら、弟から電話がかかってきて母の呼吸が浅いと知らされた。その数時間後、息を引き取ったと連絡がきた。三日前、意識があるうちにみんなが病室に会いにいけて本当によかった。母が亡くなったことを知った娘は、仕事終わり東京から駆け付けた。どうしても、骨になる前のおばあちゃんに一目会いたいと。娘は初孫のたった一人の女の子の孫。私が働いているので、夏休み別府で過ごすことが多かったので母とは、一番長い時間をすごした孫だと思う。小さいころ遊園地に連れて行ってくれたり、ピクニックに連れて行ってくれたり別府の時間を楽しませてくれた。娘が大学生の時は、大分でライブがあるといえば、実家に泊まり体がうまく動かなかった母を介護してあげていたらしく、母によく感謝された。優しい子に育ってくれてほんとよかった。のぶちゃんへと母に当てた手紙。たくさんの思い出と感謝を綴っていたのだろう。母の戒名を付ける時、どんな漢字を入れたらいいのかと聞かれた。母は強いながらもやさしさをたくさん持った人で、母の周りにはいつも人が集まり笑いが絶えない人だったことを伝えると、光明という漢字をつけてくださった。小さい頃からどんな時も、みさちゃんあそこ行くから一緒にいこうえ~♪といいながら私を連れ歩いてくれた。町で会う人会う人と楽しくおしゃべりをする母は、ほんとうに人気者だった。私が、娘と同じ気持ちで涙がでたのは、空港での母の姿を思いだした時いつも実家に帰ったときは、1時間かかる飛行場まで迎えにきてくれた。重い荷物を持ってくれて、疲れたやろ~っと声をかけてくれていた母。娘も空港に着いた時、その場面を思い出し、大きな悲しみに打ちひしがれたと。お葬式は、母の大親友とその子供(私の幼馴染)がお参りにきてくれた。みんな、母が自分より元気で長生きする人だと思っていただけに、ショックを隠しきれなかったようだった。父の時も来てくださって、本当に感謝だった。母の分、元気に生きていてほしいと、心の底から思った。お葬式を終え悲しみむ暇もなく、息子がその次の週、大学の卒業式、そして東京への就職私は、西へ東へ、いろんな感情を整理できないまま、息子が東京で生活するための準備へ追われた2024年の3月は、私にとって忘れられない濃いい3月となった。そして4/1息子が晴れて社会人に。たくさんの希望を胸に歩き始めた。一人の人間として、これから生きていく土台はできた。これからは、自分の力で生きていかないといけない。いろんな旅立ちがある。いつも前向きに前を向いて進んでいくことが何よりも供養だと思って、私もこれからの人生歩んでいく。お母さん、たくさん愛してくれてありがとう。感謝でいっぱいです。今日もありがとう。>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>生活に必要なものは ニトリですべて揃う