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カテゴリ:思い出すこと。
*↓ 外出は暑そうなので断念して、代わりに(はあ?)ネット・サーフィンしていたら以下のようなビートルズの記事があったので、今日はそれを全文引用してから、ビートルズの関連で少し昔話をしてみようかと・・。w 8月18日甲虫日記 遅れてきたビートル 最年長で小柄なドラマー、リンゴ・スターを正式メンバーに迎え入れることは、ビートルズにとって成功へのステップアップのひとつだった。 リバプールの労働者階級の家に生まれた本名リチャード・スターキーは、3人とはすでに顔なじみだった。 ドラムを担当していたローリー・ストーム&ハリケーンズは、西ドイツ(当時)のハンブルクにある「カイザー・ケラー」でビートルズと交代でステージを務めていた。リンゴは代役としてビートルズのドラマーに入ることもあった。 新生「ファブ・フォー」の初ステージは、1962年8月18日。リバプール郊外にあるポート・サンライトのヒューム・ホールで開かれた夜のダンス・パーティー。4日後には、グラナダ・テレビ局のカメラ・クルーがキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏が初めてテレビカメラに収録された。 2月からブライアン・エプスタインとのマネジメント契約が始まると、3月にはBBCラジオに初出演を果たし、6月にはEMIのレコーディングセッションにもこぎつけた。念願のレコードデビューを果たしたのは、新生「ファブ・フォー」誕生から2カ月もたたない10月初めのことだ。 グループは長い下積み時代から抜け出し、栄光と成功への階段を駆け上がる、まさに直前の第一歩を踏み出そうとしていた。その矢先のメンバー交代だった。 リンゴは、ジョンの言葉に従ってあごひげを剃(そ)り落とし、髪のシルバーのメッシュもやめて「モップトップの4人組」のひとりになった。地元ファンは「世界一ツイてる男」と呼んだ。 一方で、「ビートルズになりそこねた男」ピート・ベストの悲劇がある。 ピートはビートルズ結成時の5人目のメンバーで、グループ初のハンブルク巡演に出かける前の1960年8月にメンバーに加わった。ほかに病死したスチュアート・サトクリフがいた。 新生ビートルズの初ステージがある2日前、ピートはエプスタインから電話で呼び出され、彼の事務所に向かった。そこで「3人が君をはずしたがっている。3人は君をドラム奏者としてはいまひとつだと思っている」と告げられた。 地元ラジオのディスクジョッキーはピートがビートルズ最大の魅力だと認めていた。地元ファンは「ピート・ベスト&ザ・ビートルズ」と呼んでいた。物静かで男前のピートを「容姿に関しては最も売れそうなタイプ」と評していたEMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンは、エプスタインが解雇したことを「意外だ」と受け止めた。 ドラムの腕前は別として、3人がピートとの間に垣根を築き始めていたこと、エプスタインに解雇を告げるように依頼したことは事実だ。あくまで想像だが、3人は前髪をおろさず、女の子に最も人気があったピートに嫉妬(しっと)していたらしい。 アンソロジーによれば、ジョンは、ピートのメンバー入りはハンブルク巡演のためで正式なドラマーがみつかれば降りてもらうつもりだった、と証言している。 ポールはリンゴの加入によって「僕らにはちょっと弾みがついて、イマジネーションが広がり、バンド全体が安定した」と話す。 リンゴの加入に最も積極的だったのはジョージだ。ジョンとポールにリンゴを正式なメンバーに入れることを強く働きかけた。「リンゴが代役でドラムを叩(たた)くたびに『これだ』って感じがした」。リンゴの自宅を訪れ、応対したリンゴの母親にバンド入りの話を切り出してもいる。 ビートルズがリンゴを迎えて初めてキャバーン・クラブに出演した8月19日、ピートのファンが大挙して押し寄せ、「ピート・イズ・ベスト」「リンゴはビートルズにいらない」などと叫んだ。 ジョージはギグが終わって楽屋から暗い通路に出たところで、誰かに頭突きを食らわされて左目に大きなあざをつくった。ことの成り行きに狼狽(ろうばい)したエプスタインは、眠れぬ一夜を過ごした。 その後、ピートは音楽活動も一時目指したが、最終的には公務員に落ち着いた。 リンゴに会った人に取材すると、ほとんどが「4人のなかで最も謙虚な男」という評価で一致する。 リンゴ自身の有名な言葉がある。「ビートルズの中で一番好きなひとの人気投票をしたら、僕はビリになるだろう。だけど、二番目に好きなひととなったら、たぶん僕がトップだろうね」 遅れてきたビートルが果たした役割は大きい。 ============ *これは私の自慢話になるのかどうか、私はビートルズのレコードが日本国内で発売される遥か以前に彼らのレコードを何枚か持っていた。それはなぜか。ぶひひっ。 私は東海地方のとある田舎町の中学生だった当時、同年齢のドイツの女の子と英語で『海外文通』なるものをしていた。 その彼女があるとき「あなたはビートルズというイギリスのロック・グループを知っているか?彼らはワールド・フェイマスなグループで、私は彼らに夢中である。あなたが望むなら私は彼らのレコードを送る」と言って来たのである。 その時点では私は正直に言ってそんなグループは知らなかったが「姉はそのグループを知っている。レコードは是非欲しい」と答えておいた。 今海外文通はしていないので(←あったりまえ)現在の事情はわからないが、当時は日独間だと航空便で凡そ1週間から8日かかった。料金は10gまで100円だったろうか、とにかくめちゃ高いので文通には航空便専用のペラペラに薄い封筒と便箋を使っていた。 返事を出した直後のある日(読売の夕刊だったかな?)ビートルズのアメリカツアーが成功を収めたという記事が出て、私は初めて彼らの存在を知った、メンバーの四人がドアの影から縦1列に顔だけ出している有名な写真と共に。 ドイツからも航空便の料金は高かったのだろう、彼女はレコードは船便で送ってくれた。これは到着までに一ヶ月かそれ以上かかるという気の長い話だったが運賃は格安だったのである。 レコードは確か2回届いた。最初はビートルズだけが2枚。次がデイブ・クラーク・ファイブというやはり当時のいわゆるリバプール・サウンズのものと、ドイツのなんたらいう女性アイドル歌手の「イッヒ・ギィノ・ズル・シューレ♪(=それでも私は学校へ行くわ♪という意味らしい)」という曲、Hippy Hippy Shake(The Swinging Blue Jeans?)Bus stopなどを贈ってくれたのである。 レコードと言っても「ドーナツ盤」という奴で、表裏普通は1曲ずつしか入っていない。今で言う「CDシングル」みたいなものと思って頂きたい。 これもA面にはメインの曲、B面には抱き合わせの(どうでもいい?)曲というのが普通だったが、最初に送られて来たビートルズの2枚はというと: 1.Love me do.+ Please please me. 2.Money.+ It won't be long. という破格の組み合わせだった。 但し包装は簡略そのもので、紙のジャケット1枚だけだった。 当時の日本のポップス界の流行はアメリカにそっくりそのまま追従して行くというもので、アメリカの「ビルボード」や「キャッシュボックス」(1942-1996)のランキングが何週間遅れかで日本でもそのまま反映されるというものだった。 ビートルズにしても同様で、本国イギリスでのデビュー曲は"Love me do."だったが、これが日本で流行るのは(曲が地味だったこともあるが)かなり遅れた。アメリカでは"Please please me"や"I wan'na hold your hand"の方が先行したので、日本もこれに追随したのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年08月26日 17時14分31秒
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