古紙回収活動<続き>
純粋に建築を建築家の「作品」として見るのが好きな人間として言うのだが、そのマンションは賃貸物件とは思えないぐらい力を入れた造りだった。まず感心したのは居住者のプライバシーへの配慮だった。マンションは神田川沿いの河岸段丘の斜面に建つ4階建て、北側の駐車場はちょうど2階の位置にくる。Mizumizuの居室は最上階にあるのだが、階段で2階分登るだけですむ。しかも、全部で30室はあるマンションなのだが階段が複数設けられ、いわゆる共同廊下はない。Mizumizuが使っていた階段は実質4世帯用。駐車場から長く歩くこともなく、すぐに自宅の玄関にアクセスできた。部屋は南北バルコニー、玄関はセンターイン方式になっている。南側の窓からは世田谷の烏山の緑が見え、天気のよい朝は富士山も望むことができた。北の窓からは広い駐車場と、第一種低層地帯の住宅地。南北の窓の視界が完全にひらけており、共同廊下もないから、窓の向こうを同じマンションの住民が歩いていくというようなこともない。建物はコンクリートの打ちっぱなしで、横2世帯分ずつ、少しズレて並んでいるようなデザインになっている。これはどういうことかというと、南のバルコニーに出たときに、バルコニーのシキイ戸でつながれているのが2世帯だけしかいないということだ。Mizumizu邸の場合は、左手の隣人のバルコニーとは直接つながっていたが、右の隣人の居室は少し飛び出た形になっているから右手に見えるのは壁だけだった。バルコニーに出たときに感じる隣人の気配を最低限に抑えているのだ。私鉄の駅からは、歩いてほんの5分ほどだが、駅前のバス通りからマンションへ向かう狭い公道に折れると、その道はかなり雰囲気がいい。武蔵野の面影を残す巨木もあり、よく手入れされた植栽が目を楽しませてくれる閑静な住宅街を歩くことになる。夏はジャスミンの香りがただよってくる。特に決めたわけでもないだろうが、家の生垣にハゴロモジャスミンを植えている家が多かったのだ。そうしたかなり感じのよい道の中で、唯一の例外があった。それがマンションを「旗竿」にしている例の狭い空き地だ。そこはまったくというほど手入れがされておらず、草ボーボー。ときどきお犬さまが飼い主をいっしょに何かしている。犬はこうした場所で何かいたすのが大好きだ。マンションの駐車場のフェンスとの境には安っぽいベニヤのような壁板を打ち付けている。公道に面した部分はオープンだが、マンションに入るために通る2.5メートルの私道との境には、Mizumizuのクルマに40万のキズを負わせた、ガッシリとした「嫌がらせの柵」。その空き地を唯一利用するのが、古紙の集団回収の集積所として、ということだったのだ。テレビで放映されるぐらいだから、ここの住民の古紙回収活動が大掛かりであることは想像できると思う。実際、天井ぐらいの高さにまでうず高く積み上げられた古紙の山は、マンション4FのMizumizuの北の居室の窓からも見えた。そこに集められた古紙がどのくらいの間、放置されていたのかは憶えていない。だが、翌日か翌々日には回収されていたのだとは思う。そんなに長いあいだそこにあったわけではない。だが、Mizumizuはふだん、「汚い空き地だな。ワザと手入れしないわけ?」と思いながらそこをとおっていた。回収の日に大量の古紙をもってきて黙々と積み上げている住民たちの「活動」が始まると、その姿には何かしら排他的なものを感じた。そうしたとき脇を過ぎながら、「ちょっと邪魔じゃないの? いくら自分の土地に置くだけだからって、他人の家の前で大人数が集まって長いことガサガサするなら、率先して挨拶ぐらいしないわけ?」などと思わないでもなかった。向こうからすれば、賃貸マンションに住むMizumizuのほうが一種のヨソモノだったのかもしれない。そして、彼らが去った後一時的に置かれている(Mizumizuから見れば放置されている)古紙の山を見るのは最高にウツな瞬間だった。「汚いなあ、他人の家の鼻先に置きっぱなしにして平気なわけ?」イヤだ、キタナイ、と思っているからますます気になる。住民の手による古紙回収というエコな活動が行われる日は、それに対して何の説明もされていない近隣の部外者にとっては、マンションから出てくるたび、入るたび、北側の窓から外を見るたびに大量の古紙という「ゴミの山」を見せつけられる日だったのだ。テレビで、「せっかく集めた古紙を勝手に持ち去られ、罵声まで浴びせられた」と語る住民の1人を見たときのMizumizuの感想を仮に声にして出すなら、「へぇぇぇ。そーなんだ。一所懸命集めたのにねぇ。お目当てのお上からのおカネがもらえなくなっちゃったんだぁ。本当にそれは残念だったでしょうねぇ。で、やすやす逃げられちゃったうえに、怒鳴られたってワケね。ふ~~~ん」それがダイレクトな本音なのか、あえて誇張した表現なのかは、賢明なる読者におまかせするとしても、被害者の不幸に、Mizumizuが、一種の爽快感―とまではいかなくても、快感―とまでは具体的でなくても、少なくとも「何かしら不快でない感情」を憶えたのは、否定しない。例の「柵主」が、なぜ普段は使いもしない自分の狭い土地の「一部だけ」にアレをたてたのかは知らない。自分の土地のごくごくごくごく一部でも他人のクルマの車輪が入り込むのがイヤだったのか、閑静な場所にある自分の家の前をクルマが通るのをできるだけ防ぎたかったのか、それともマンションの大家が駐車場で儲けるのが不愉快だったのか。あるいは4Fのマンションが建つこと自体が目障りだったのか。だが、その柵が、自分のまったく知らないところで、自分とは縁もゆかりもない人間であるMizumizuに、これだけマイナスの感情を抱かせることになるとは、恐らく想像もしていなかっただろう。Mizumizuだって、ふだんはとっくに忘れている「ある狭い空き地があるために味わった、いくつかの不愉快なこと」が、ある夕方のテレビに映ったたったひとこまの景色によってよみがえるとは想像もしていなかった。こうした感情が恐らく、「精神の闇」への入り口なのだろうと思う。もちろんMizumizuはその闇の中へさらに入り込むこともないし、長い時間捉われてしまうこともない。だが、時に自分の感情の中に闇への入り口がひらくことはある。おそらくそれは誰にでもあるだろう。自分以外の人間にとっては何でもないできごとに、人はしばしばとんでもない屈辱を覚え、傷つけられたと感じる。そうしたときに開く精神の闇に、落ち込んだまま抜け出せなったときにはどうしたらよいのか―これは重くて難しい問題だ。