一兵卒としてのジャン・マレー
<きのうから続く>軍に入ったものの、芝居のことしか考えていないマレーは1人でぶつぶつ新しい戯曲の台詞を練習していたために、最初は気違い扱いされてしまう。やがて『恐るべき親たち』で有名な役者だと皆が知るようになると、彼と親しくなろうとする人間、彼に冷たく当たる人間ができて、一種のタブー的存在に。だが、軍用車の運転手を務めていたとき、仲間が車の取っ手を壊し、その責任をかぶって抗弁せずに罰を受けたことで、仲間の兵隊の見る目が変わった。壊した当人があとから良心の呵責を感じて名乗り出てきたのだ。さて、マレーは中でも気の合った軍曹と「姿をくらます」ことをしょっちゅうやるようになる。軍用車でひそかにパリへ行っていたのだ。軍曹は家族かあるいは愛人と会いに、マレーはもちろんコクトーに会いに。いつも朝早く点呼前に戻るのだが、ある霧の深い日、たまたまマレーが軍曹に運転を替わってもらったところ、溝につっこんで事故ってしまった。2人で車を引っ張りあげることは不可能だった。仕方ないので、通りがかりのトラックを停め、綱で引き上げてもらった。車は思った以上にへこんでいる。しかも、スピードも出なくなった。マレーと軍曹は6時には戻るつもりでいたが、結局9時になった。将校事務所に入っていくマレー。将校はマレーをじろりとにらみつける。「どこにいたんだ?」「はい、自室におりました!」「いや、部屋にはいなかったぞ。捜しに行かせたんだ」「散歩しておりました!」「……結構。で、車はどこだ?」「入り口の前であります!」2人は車を見に行く。当然ぶざまにへこんだ車が将校の目に入る。「事故を起こしたな?」「いいえ、中尉殿!」「なにが、いいえだ! よく見ろ!」「はい、中尉殿!」「はい、だと? 事故を起こしたことを認めるんだな?」「いいえ、中尉殿!」「きのうまでは完璧だっただろ? それがどうだ? よく見てみろ!」「いつもこんな具合であります。中尉殿!」「君は私を気違い扱いするのかね!」「いいえ、中尉殿!」「では、どうなんだ?」「どうと言われても、車はいつもと同じであります。中尉殿!」気違い沙汰なのは、明白な事実を否定しているマレーのほうだ。しかし、こう答えている限り、中尉にはどうしようもないし、マレーも追及されたくなかった。まさかパリへコクトーと密会しに行っているなどと言えるわけがない。「営倉入り」の罰が下るが、営倉がなかったので、歩哨番にさせられた。ところが、将校を含めて皆が、マレーはまた誰かをかばって演技していると思い込む。ある意味正しい推測だ。車を溝にはめたのは軍曹だったからだ。彼らはマレーを歩哨番から解放すべくストライキを起こした。やがて、動員解除されると、例の中尉がマレーに尋ねてきた。「誰が車を壊したか、もう教えてくれてもいいんじゃないか」マレーは微笑んで答えた。「中尉殿、車は本当に壊れたりしなかったんですよ」戦争をしているとは思えないぐらいノンビリとしたエピソードが多いが、実は当時のフランスはまともにドイツと戦う意思がなかった。ドイツ軍の勢いもあったが、国民の間では厭戦ムードのほうが高く、休戦派が徹底抗戦派を押し込めて1940年6月22日に、仏独休戦協定が締結されている。こうして、占領下におかれたパリに、動員解除されたマレーは疎開していたコクトーと途中で合流して帰ってくる。変わり果てたパリを見て2人は涙を流したという。コクトーはパリ陥落の前(1940年)にマドレーヌ広場のアパルトマンを引き払い、モンパンシエ通りに2人のための新しいアパルトマンを見つけていた。モンパンシエ通りとは、パレ・ロワイヤル庭園を取り囲むアーケードの外側にある通りのこと。つまりアパルトマンは一方はアーケードに面して、一方はモンパンシエ通りに面しているということになる。マレーは10年ほどここでコクトーと暮らし、その後出て行ったが、コクトーは死ぬまでこのアパルトマンをパリの住居としていた。「モンパンシエ通り36番地の小さなスペースを、私たちは『恐るべき親たち』のなかでと同じように家馬車と呼んでいた。ある魅力が私たちといっしょに棲んでいた。コメディー・フランセーズの横を通るにせよ、リシュリュー通りからの階段を使うにせよ、あるいはコレットの家の前に出るボージョレ通りを辿るにせよ、家に近づくとすぐその魅力が働き始めるのだった。経路はその3つだが、どれを通っても禁断の町に入っていくような気がした」(ジャン・マレー著『私のジャン・コクトー』東京創元社 岩崎力訳)き、禁断の町… なんて「まんま」な表現……<追記>以前mapumamaさんからご紹介いただいたYou Tubeの映像。http://www.youtube.com/watch?v=tlEcnuvMHiI フィルムの逆回しや窃視といったコクトーお得意の映像表現を紹介したあと、0:20あたりに円柱のあるアーケードをコクトーが歩いてくるシーンがある。コクトーの晩年の様子と思われるが、これがパレ・ロワイヤル庭園の3方を取り囲んでいるアーケード(コクトーが歩いているのはおそらく、西側のモンパンシエのアーケード(Galerie de Montpensier)」)で、ここに面した建物の中に「モンパンシエ通りのアパルトマン」があったのだと思う。コクトーが鉄製の扉から向こうを見ているシーンがあるが、その視線の先にはパレ・ロワイヤル庭園があるはず。ちなみにパレ・ロワイヤルそのものはルーブルの近くで、庭園はその北。南北に長い長方形の庭園になっている。ネットでコクトー関連の記事を読んだら、コクトーはパリの「パレ・ロワイヤルに住んでいた」と書いているエントリーをいくつか見つけたが、それは正しくない。パレ・ロワイヤルの庭園のそばであって、パレ・ロワイヤルに住んでいたわけではない。マレーにしろコクトーにしろ、自作では必ず「モンパンシエ通り36番地のアパルトマン」と書いている。1948年にこのアーケード、つまりコクトーのアパルトマンの目と鼻の先に「ル・グラン・ヴェフール」というレストランが再開し、1953年には、コクトーはこの店のために絵皿を制作している。上のYou Tube映像にVefourという下がり看板が見える。グラン・ヴェフールは今でもあり、「ルレ・エ・シャトー」のメンバーとして格式を誇っている。<続く>