コクトー流モラリスティックな生き方とは
<きのうから続く>マレー演出の舞台『アンドロマック』を上演していた劇場に突然武器をもった反レジスタンス組織の民兵が押し入って占拠し、戯曲が上演中止に追い込まれたのが1944年5月29日。まったくの偶然なのだが、この日にオーストリアでヘルムート・バーガーが生まれている。バーガーの出世作『地獄に堕ちた勇者ども』(もちろんヴィスコンティ監督)に、「長いナイフの夜事件」をモチーフにした場面、つまりナチ主流派が突然、敵対勢力がたむろする屋敷に押し入ってきてその場にいた人々を皆殺しにする場面があるが、何となくダブって見えるのは不思議な運命のいたずらだろうか。それから1ヶ月後、扁桃腺の切除手術を終えたマレーのところに驚くべきニュースが届く。フィリップ・アンリオがレジスタンス兵に暗殺されたのだ。「やったのはお前じゃねえの?」「お前、28日はどこにいた?」友人が冗談とも本気ともつかない口調で聞いてくる。アンリオがラジオでマレーを中傷する演説を行ったのが5月28日。暗殺されたのは6月28日なのだ。コクトーは『占領下日記』に書いている。アンリオの友人も敵も、彼の死の真の原因は『アンドロマック』事件に端を発していることを知らない。どんな人間であれ、ああした冷酷で愚劣で卑怯な行為を犯せば、幸運と不運の仕掛けが必ず働き、爆薬が調合されるのだ。ジャン・マレーがされたように高貴さや純粋さが公衆の面前で一挙に汚泥を浴びせられるようなことがあれば、必ずその恐るべき応報が、生じるものなのだ。今この瞬間に照らせば、「ああした冷酷で愚劣で卑怯な行為を犯せば、必ずその応報が生じる」という言葉は、まるで青山学院大学瀬尾佳美准教授に向けられたもののようにMizumizuには映る。彼女が公衆の面前で汚泥を浴びせた人々は光母子殺人事件の被害者と同事件担当の最高裁判事、それに拉致事件の被害者。以下のあきれ果てた中傷文は、いかに瀬尾佳美という人間が、自分の幼稚で狭量な想像力と感情でしか世の中を見ることができないかを示している。「私としては、女子学生に多額の奨学金を貸し出すのはなんとなく気が引ける。光市の母子殺害事件の被害者みたいに、借りるだけ借りておいて、卒業したら間髪いれずに孕んでそのままぜんぜん働かず、挙句の果てに平日の昼間から家でぶらぶらしていたため殺されちゃうなんてことになっては回収不能になるからだ」「差し戻した最高裁の判事の妻は、おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう」「元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね」「拉致家族にしても私は軽い違和感を覚えます。私は子供をなくした経験がありますが、『めぐみっちゃん』はちゃんと育って、結婚までして、あまつさえ子供までもうけています。私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」「これからもこんな日本みたいな国に生まれて幸せだったと思うことは生涯一度もないと確信しています。毎日、夜寝るときは今日も日本から脱出ができなかった自分のふがいなさに苛立ち、朝起きたときは今日も奇跡がおきずにまたも日本で目覚めてしまった絶望に日々打ち砕かれます。こんな限りない日常が終わりになるなら是非拉致されたい。行き先は北朝鮮でも火星でもとにかく日本人がいないところならOK」ここまで書いたからには、当然その責任は負わなければいけないだろう。ことに最後の2行の甘えた物言いは、精神が退化し幼稚化した日本人の典型例。どう見ても日本以外では生きていけず(それは本人も自覚しているようだが)、日本以外では通用しないような人間に限って日本の悪口を言う。悪口を言うことで商売になる。本当に日本は平和の毒に麻痺した国だ。言論の自由が保証された国で何より問われるのは、書き手が心の中にもっている「モラル」なのだ。当時、コクトーはヒットラーの側近ともいわれたドイツ人彫刻家アルノ・ブレーカーと交流を続け、彼の個展に序文を寄せたりしていたため、レジスタンス側からも批判されていた。もちろん、対独協力派からもセクシャリティをからめて中傷されていた。そんな彼にブレーカーは再三申し出ている。「ジャン、ぼくから『その筋』に頼めば、彼ら(=対独協力派)を少し黙らせることはできると思う。君さえよければ……」だが、コクトーはいつもきっぱりと断っている。「アルノ、ぼくはね、あいつらから侮辱されるのが好きなんだ」コクトーは自分の政治力を利用して、敵を黙らせようとは決してしなかった。彼は日記に「判断は歴史がくだす。そう祈る」と書いている。ブレーカーはそんなコクトーに対して、「万が一の時には、ぼくに聞いたといって、ここに連絡するように」とヒットラーに直接つながる電話番号を密かにコクトー(とピカソ)に教え、コクトーの友情に報いていた。そう、ある意味、コクトーは非常にモラリスティックな人だった。それは作品を読んでもわかる。コクトー・ワールドの登場人物たちは、ある一定のモラルから決して道を踏み外さない。それは時代や社会によって変わる道徳の基準ではなく、人が人である以上自然にもっているべきモラルだ。コクトーは確かに早熟・多情な人で、当時の感覚では、それは犯罪に近いと考える人も多かった。だが、今日的に見れば、コクトーのセクシャリティはなんら犯罪的ではない。複数の同性・異性と交際してトラブルになることはままあったが、買春や未成年者虐待のようなことは決してしない。むしろそうした行為を彼は激しく嫌悪していた。コクトーにとっては「心と官能があまりに密接に結びついているため」「友情もその範囲を出てしまう」だけにすぎなかった。マレーも最晩年に出版した『私のジャン・コクトー』で「コクトーのモラルはいっさいのモラルを超えたモラルであり、私もそのモラルにしたがった」と書いている。たとえば、マレーの言いたいことを、マレーに代ってコクトーが書き、それをジャン・マレーの名前で発表することに、2人はまったく後ろめたさを感じていなかった。コクトーとマレーは「ぼくは君、君はぼく」だったからだ。コクトーがマレーの代作を始めたきっかけはマレーが24歳のとき(つまりは2人が出会った直後)。あるジャーナリストが有名になったばかりの舞台俳優ジャン・マレーのところへやってきて、「自分にとってニュートンのりんごとは何だったのか」という主題で雑誌にエッセイを書いてほしいと言った。そのときのマレーは、ニュートンのりんごって、ナニ?状態だった。自分の無知・無教養が白日のもとにさらされる恐怖でパニックになったマレーは、コクトーのところへ駆けつけ、恥ずかしさに真っ赤になりながら、自分の代わりにそのエッセイを書いてくれないかと頼む。コクトーはマレーがびっくりするほど、あっさりと承知して書いてくれた。で、今度は、それを読んだジャーナリストがびっくり。ジャン・マレーって、こんなに才気に溢れた教養人だったのか!ジャン・マレーって見かけだけじゃなく、頭もいい――一挙に評判が広まり、次々に雑誌から執筆依頼が来た。それらを全部コクトーが、ときにマレーの意見を求めながら代作していく。だが、そんなコクトーが頑として代作を拒んだテーマがあった。それは来るべきして来たテーマ、「ジャン・コクトーについて」書いてくれという依頼だった。いつものように代作を頼んできたマレーにコクトーは言った。「それだけはダメだ、ぼくのジャノ。君の名前でぼくについて書くなんて権利は、ぼくにはないよ」この拒絶にマレーは驚く。「自分について人に読んでほしいと思うことを何でも書いてくれればいいよ。みんなの誤解をとくいいチャンスじゃないか」「いや、ぼくにはそんな権利はない」「もうOKしちゃったんだよ」「こんなことをぼくに頼んじゃいけない。断るか、自分で書くか、どちらかにしてくれるかい?」マレーの名前で自分について書く――コクトーにとってはそれは自分のモラルに反する行為であり、彼の慎みが許さなかったのだ。そこでマレーは初めて、自分自身の手でエッセイを書き、コクトーに読んでもらった。コクトーは微笑ながらマレーに言った。「心と魂はどんな学校にもまさるね」コクトーは無知・無教養を自覚していたマレーのために、読むべき本のリストを作り、マレーをあちこちに連れて行ってはモノの見方を教えた。コクトーが心と魂で行ったそうした行為は、マレーにとってはどんな学校にもまさる勉強の機会となった。そうして、マレーはコクトーの書いた台本を誰よりも多く暗記した俳優になる。ニュートンのりんごすら知らなかった無学な青年は、いつしか、コクトーが見ても印刷物に載せるに足る文章を書ける人間に成長していたのだ。<続く>