「シチリアなしのイタリアは、心の中に何のイメージも作らない」(by ゲーテ)
<きのうから続く>儀式のようなヴィスコンティ邸の食事が始まった。食前酒のスプマンテを注いだカメリエーレがひっこむのを待って、マレーは昨夜出会ったシチリアの少年の話をした。悲劇的な境遇の少年を救うためには、たとえば自分が彼を養子にするのはどうだろう――マレーは真剣にそう思っていた。「養子……?」「うん。ここに来る前にガソリン・スタンドに寄ってみた。もう誰かのクルマに乗って南に行ってしまったあとだった。――なあ、ルキーノ、あの子にもう一度会うには、どうしたらいいんだろう?」ヴィスコンティはマレーの突飛な相談に、驚いたふうはなかった。冷静に聞いていたが、次の質問はマレーのほうを驚かせた。「ジャノ、君は――その子に惚れたのか?」ヴィスコンティの声は沈着だった――というより、むしろ陰鬱だった。「おいおい、ルキーノ。何を言ってるんだ。――12歳ぐらいの子供だよ」「12歳は、すぐに14歳になる。それから15歳になり、16歳になり、17歳になる……」「待ってくれよ。そういう目的で養子を取る人間がいるのは知ってる。でも、誓って言うが、ぼくにはまったくそんな嗜好はないよ。――ぼくはただ、1人の不幸な少年を救いたいんだ。父親が母親を殺して、自分はひとりぼっち。そこまで運命に見放された子供に手を差し伸べるのは、正しいことじゃないのか?」アンティパストが運ばれてきた。ヴィスコンティは黙り込んだ。2人はフランス語で会話していた。だからイタリア人の給仕係に話はわからないはずだ。そもそも、聞かれてまずい話などしていない――マレーはそう思ったが、ヴィスコンティは使用人が来ると、わざわざ口をつぐんだ。昔からヴィスコンティには、こういうところがあった。何でもないことまで秘密にするような、奇妙に閉鎖的なところが。2人が初めて会ったのは、マレーがコクトーと出会った半年後の1937年の秋。当時『ヴォーグ』誌のカメラマンをしていたホルスト・P・ホルストの家だった。『オイディプス王』のときに、マレーの写真を撮りに来たホルストはすぐにマレーと親しくなり、以来マレーはホルストの家にしばしば招待されていたのだ。ホルストとヴィスコンティは、一度同時にしばらく姿を消したことがあった。ヴィスコンティはマレーが行き先を聞いても、その間のことは話さなかった。ホルストのほうが後から、2人でモロッコで休暇を取ったとマレーに話した。マレーはヴィスコンティが、ことさら秘密にしたことに多少の違和感を覚えないでもなかった。「ジャン・コクトーが、以前に君についてこんなふうに書いていたな……」と、ヴィスコンティ。「君は、『ヒロイズムの中でしかくつろげない俳優』だって――」それはある新聞にコクトーが書いた、ジャン・マレーに関するエッセイだった。ヴィスコンティがそんな記事まで読んでいるとは、マレーは思ってもいなかった。「ルキーノ、ジャンはね……ジャンは、ぼくが見るところ、ほとんど欠点のない人なんだけど、唯一の欠点は、ぼくに備わってもいない美点で飾り立ててぼくを見ることなんだ。ジャンは常に真実を語るけれど、ことぼくに関する文章は、割り引いて読んでくれよ」「そうか……」ヴィスコンティは、小海老のカクテルをまるで聖体を口に運ぶようにして食べていた。ほとんど生来の――とマレーには思える――威厳と神秘性……マレーはふいに気後れを感じた。それはやはり、ピカソの家にいるときに感じる感情に似たものだった。「……ぼくは、ヒロイズムからは程遠い人間だが、もしぼくみたいな人間にも、ジャンが君に見るようなヒロイズムがあったとしたら……それは、若いころ、『揺れる大地』を撮ったときだろう――」『揺れる大地』(1948年)は、シチリアを舞台に、資本主義に蹂躙される漁民と労働者の現実を描いた作品。マルクス主義者として知られる「赤い貴族」ヴィスコンティは、この映画を選挙の時期に公開しようとして、周囲を尻込みさせた。『揺れる大地』は興行的には大失敗で、ヴィスコンティ個人も多大な経済的損失をこうむった。さらに、ヴィスコンティが解放に手を貸したつもりのシチリアの労働者も含めて、1948年の選挙では国民の多くがキリスト教民主党に投票して圧勝、左派系は勢力を失い、ヴィスコンティの政治的な思惑もはずれる結果となった。「――ミラネーゼ(ミラノ人)のぼくにとって、シチリアはイタリアの中でもっとも遠い場所だった。いや、世界中でもっとも遠い島かもしれない。若いころはとかく人間は、自分から一番離れた世界に行きたがる」「シチリアは、そんなに異質なのか?」「半島に住むイタリア人がシチリアに対していだく感情は、とても複雑だ。それは北に行けば行くほど強烈になる。差別意識だけにこりかたまっていられる人間は、むしろ幸福なのかもしれない。シチリアーノ(シチリア人)以外のイタリア人は、常にシチリアには苛立たされる……そして、多かれ少なかれ贖罪意識をもたないではいられない。同情もある。同時に恐れ、忌み嫌ってもいる。だが、シチリアは一面で、イタリアそのものだ。イタリア以上にイタリアだ。イタリア人である以上、シチリアにこだわり、愛し、郷愁をもたずにはいられない」「……」「わかるかい?」「……いや、その――」マレーは口ごもった。「悪いが、ぼくには、さっぱり……」ヴィスコンティはやさしく笑った。「つまり、ゲーテは正しいのさ――Italien ohne Sizilien macht gar kein Bild in der Seele……」ヴィスコンティはフランス語だけではなく、ドイツ語や英語にも堪能だった。パリで出会ったとき、あまりに彼のフランス語が流暢なので、マレーはてっきり長くフランスに住んでいるイタリア人だと思ったのだ。だが、そうではなかった。フランス人の家庭教師が家にいたのだとヴィスコンティは言った。勉強はすべて家庭教師に習い、学校に通ったことがないというのは、素行不良で学校を追い出されたマレーには別世界、いやむしろ別時代の身の上話のように聞えた。「ルキーノ、それはゲーテの言葉か?」「ああ」「で……どういう意味?」「『シチリアなしのイタリアは、心の中に何のイメージも作らない』」「はあ……」マレーはがっかりした。フランス語で聞いても結局、よく意味がわからない。「つまり、イタリアはシチリアなしには存在しえないということだ。――ぼくはゲーテがイタリアについて語る言葉を引用するのが嫌いだった。それはファシストの奴らが、ナチス・ドイツとイタリアの結びつきを強調するときに、必ずゲーテを利用したからさ。だが、それも今は過去の話になった……」カメリエーレが今度は第一の皿を運んできた。ヴィスコンティは律儀に黙る。「小海老のカクテルは、いかがでしたか?」「え……ああ、とてもおいしかったよ。ありがとう」「リビエラの海老に負けないでしょう?」「リビエラ? そうかい?」主も主なら、使用人も使用人だ――わけのわからないことを言われて、マレーは混乱した。ヴィスコンティは余計なことをしゃべるなと言わんばかりに、カメリエーレを睨みつけた。使用人は慌てて引っ込んだ。「……だから、今ならゲーテは正しいと、大声で言うことができる。シチリアなしのイタリアなんぞ、考えられない。シチリアは半島より歴史が長い。マーニャ・グレーチア(大ギリシア圏)の伝統を真っ直ぐに受け継いでいる世界でも稀有な島だ。そして、君の得意なギリシア悲劇は、シチリアでは過去の伝説ではない」「ギリシア悲劇だって?」「そうだ。シチリアにはシチリアの掟がある。その掟は長い……長すぎる歴史と伝統と習慣とに守られているんだよ。それは、あの島の人間以外には、おそらく理解できないだろう――理解する必要もないし、理解されようとも思っていないかもしれない。――母親を父親に殺された息子がいるとする。息子が父親に復讐するのは、近代社会では、許されざる行為だし、無意味な行為……我々の住む世界はある意味、人の自然な欲望と欲求を否定している社会だからな。だが、シチリアでは違った考えがあっても不思議ではない。シチリアの掟は沈黙と海に守られている。変わろうとしても変わらないものが、あの島にはある。変わろうとしたものは滅びるという運命が、あの島を支配している。――君が、運命に見放された少年を救おうとして、シチリアから最も遠い世界に連れて行ったとしよう。君はその子に、これまで彼が知らなかった快適で贅沢な生活を与えることができるだろう。彼はだんだんにそれに慣れていくかもしれない。だが、人はいつか必ず、魂のふるさとに帰ろうとするものだ。――こんなぼくでさえね……君は『若者のすべて』を観てくれたんだね。だったら、ミラノのドゥオーモの屋上が出てきたのを憶えているか?」「ああ、ロッコが彼女と別れる場面だろう」「ぼくがあそこを使ったのは、ドゥオーモの建築にぼくの祖先がかかわっているからというのもあるんだ」「へえ……」マレーは感心した。それ以外に反応しようがなかった。<明日へ続く>1937年にホルスト・P・ホルストの撮った若き日のヴィスコンティ同年に、ホルスト・P・ホルストの撮った『円卓の騎士たち』の衣装を着たジャン・マレー。この舞台を見て、ヴィスコンティはマレーにイタリアでの仕事を申し込んだ。こちらは1960年代半ばにホルスト・P・ホルストの撮ったヴェネチアのジャン・マレー。ホルストは戦争を機にフランスを離れ、アメリカに移住していた