それぞれのヌード(ピカソ、コクトー、マレー)
「男性を描いたコクトーの素描はピカソの女性像に迫るものがある」と言ったのは、ジャン・コクトー研究の第一人者山上昌子氏だが、まったく同感。春画そのもののピカソのエロチックなドローイングを見ていると、自然とコクトーを連想する。こちらがピカソ、1968年の作品。(Picasso et Les Maitres展カタログより)アラビックなエロスを、浮世絵的な手法で線描している。そして、ジャン・コクトー。コクトーの死後発見されたドローイングには、エロチックなものが多く含まれていて、繊細なブルジョア詩人コクトーのイメージとのあまりの落差に人々を驚かせた。そのほとんどがたくましい男性美を讃えるもの、「カラミ」も男・男に限られている。中でもお下劣度ナンバーワンだとMizumizuが太鼓判を押すのは、コレ。(Cocteau Sur le fil, Francois Nemerより)何をしてるのでしょうか、この2人…。深く考えるのはよそう。コクトーのヌードには、ちょっとしたこだわりのようなものがある。それはモデルがしばしば、オールヌードでありながら、靴下だけは履いている(ことが多い)ということだ。これは1940年ごろの作品。こちらは1948年の作品(この2つはBunkamura ザ・ミュージアム編 ジャン・コクトー「美しい男たち」展カタログより)。モデルは明らかに、エドゥアール・デルミット(コクトーとはパレ・ロワイヤルの画廊で偶然出会い、その後『恐るべき子供たち』に出演。最後にコクトーの正式な養子となった)。さりげない(?)ポーズが、あまりにエロチック。でもやっぱり靴下を履いている。そしてこちらは、コクトー永遠のミューズ、ジャン・マレーをモデルにした「鏡抜け」の連作写真(1938年ごろ)。もちろんこの原案はコクトー。(Jean Marais, L'eternel retour展カタログから)コクトーとマレーが出会ったのが1937年だから、2人のコラボレーションとしてはごく初期の時代の作品。鏡を通過して黄泉の国に向うというコクトーのビジョンは、名作『オルフェ』で世界中に強いインパクトを与えた。特にハリウッド映画に与えた影響ははかりしれない。ヒース・レジャーの遺作となるテリー・ギリアム監督作品“The Imaginarium of Doctor Parnassus”では、ヒース演じるトニーの代役を、ジョニー・ディップ、コリン・ファレル、ジュード・ロウが務めるというが、それもトニーが鏡を通過して別の世界に移動するというファンタジックな設定から、別人が同一人物を演じても違和感なしとして撮影続行が決まったという。この未公開作品にも、コクトーのビジョンが地下水脈のように受け継がれている気がしてならない。“The Imaginarium of Doctor Parnassus”でヒース・レジャーが鏡を抜ける姿を見るのは来年になりそうだが、ジャン・マレーはすでに1930年代に鏡を通り抜けていた。コクトーの理想でもあるギリシア彫刻のような美を備えた青年・マレーが、これまたコクトーの妄執でもある「鏡抜け=死」を演じている。さすがにフルヌードではないものの、ここでもやはり、なぜかマレーは靴下を履いている。ジャン・マレーは当時、「頭のてっぺんからつま先まで、ミケランジェロのダビデ」と評されたが、デザイナーのジョルジオ・アルマーニに、「現代のダビデ(デビット)」と言わしめたのが、サッカー選手のデビット・ベッカム。アルマーニのアンダーウエア広告写真。パンツの薄さでは、ジャン・マレーの勝ちかな(どういうショーブやねん?)。ミケランジェロのダビデを男性美の理想とするヨーロッパの美意識の潮流は、永遠に不滅のよう。追記:デルミットと映画『恐るべき子供たち』については、2008年7月7日のエントリー参照。ジャン・コクトーとジャン・マレーの出会いについては、2008年3月19日のエントリー参照。ジャン・コクトーの「鏡抜け」については、映画『オルフェ』を取り上げた2008年6月1日のエントリー参照。