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カテゴリ:Essay
L・パバロッティが亡くなったというニュースが飛び込んできた。
2006年7月にすい臓がんの手術を受けたという話だったから、術後1年あまりでの死ということになる。 言わずとしれた「3大テノール」のひとりであり、Mizumizuも東京で行われた3大テノールの野外コンサートに行っている。ハチャメチャに値段の高いチケットだったが、満席で、一種のお祭りのような雰囲気があり、それなりに楽しいコンサートだった。 3大テノールというのは、たぶんに商業的なにおいのする設定だ。なぜ、パバロッティ、ドミンゴ、カレーラスなのか、実のところよくわからない。確かに3人とも傑出したテノールで、ドミンゴのドラマティックでセクシーな深みのある声、カレーラスの繊細で悲劇的な表現力は比類がないが、単にテノールとしての資質、もって生まれた高い声の魅力でいうなら、やはりパバロッティに並ぶものはない。パバロッティの誰にもマネのできない、まさに「神から祝福された」ごときに明るい高音は、もはや生で聴くことはないが、絶頂期の「ハイC」は、これぞテノールの醍醐味というにふさわしい輝きを放っている。 東京での3大テノールのコンサートでは、パバロッティは明らかにピークを過ぎていたが、それでも声の艶と伸びは素晴しかった。あのときは、声量に弱点のあるカレーラスが少し気の毒な感じもした。 晩年のパバロッティは、スカラ座でブーイングをあびたり、口パクのコンサート(!)をやって顰蹙を買ったり、引退するしないでモメたり、トラブル続きの感もあったが、持ち前の性格の明るさは変わらなかったし、何があっても憎めないようなところがあった。 亡くなったのは故郷のモデナのようだ。世界を股にかけた「100年に1人」の歌手も、最後はふるさとに戻ったということか。出身地を"mia terra(私の大地)”と呼び、なみなみならぬ愛着をもっているイタリア人らしい選択だと思う。 パバロッティにまつわる日本人にとっての最後の大きなエピソードは、トリノオリンピックの開会式で彼が「トゥーランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」を歌い、同オリンピックの最後を飾る華の女子フィギュアスケート競技で、日本の荒川静香選手がこの曲で金メダルを取ったことだろう。 荒川選手は、パバロッティが「誰も寝てはならぬ」を歌ったときのことについて、「運命的なものを感じた」と言っている。そのとおり、「誰も寝てはならぬ」はパバロッティの十八番だったが、荒川選手にとってもまさに運命の一曲と言っていい。実は荒川選手は、オリンピックの直前までは、同じ演技に違う曲を使っていた。 それを急遽、「トゥーランドット」に変えたのは、コーチのモロゾフの賭けだった。荒川選手は過去に一度世界選手権で優勝しているが、そのときに使ったのが「トゥーランドット」だった(当然演技構成はオリンピックのものと異なる)。氷のように冷たい姫が愛に目覚めるというストーリーは、クールというより表現力に乏しく、長い間「表情が足りない」と常に酷評されてきた荒川選手を文字通り「変身」させた曲となった。 その世界選手権の直前、本当に直前に荒川選手をコーチしたのが、ドラマティックな表現力を選手に教えることでは定評のあるロシアの名コーチ、タワソワ(モロゾフは当時タワソワ・チームの一員として振り付けを担当していた)だったのだ。「トゥーランドット」でミスのない、迫力あふれる演技をした荒川選手は、世界選手権で優勝。その数ヶ月前に行われた全日本選手権は別の選手が獲ったことを考えると、日本チャンピオンにもなれなかった選手が、タラソワについたとたんに世界チャンピオンになったということになる。 この荒川選手の快挙は周囲を大いに驚かせたが、同時に、そのときの「トゥーランドット」以上に荒川選手の魅力を引き出せる作品が作れるのだろかという危惧も生じた。実際、ルールの変更もあって荒川選手はその後低迷。オリンピック前に引退するという話もあった。オリンピックシーズンでも荒川選手の成績は冴えなかった。 そこで考えられたのが、振り付けはほぼそのままに、音楽だけ荒川選手の魅力をもっとも引き出すことのできる「トゥーランドット」(この振り付けもモロゾフ)を使うという妙案だった。これがいかに難しいかは、フィギュアを知っている人ならわかるだろう。別の音楽に合わせて構成したプログラムを、今度は演技に合わせて音楽を編集していくのだ。こんな離れ技ができるのは、職人モロゾフ以外にはちょっと考えられない。 2006年2月15日付けの読売新聞には「ニコライ・モロゾフコーチのアイデアで、従来のプログラムで演技する荒川の映像をコンピューターに取り込み、演技構成と体の動きに合わせて音楽を編集するというユニークな手法を用いた」とある。 オリンピックシーズンでの作品がよくないというとき、コーチはたいてい過去に評判のよかったのものに戻す(たとえば、ソルトレークでのカナダのペア、サレ・ペルティエ組の「ある愛の歌」がその例だ)か、あるいはまったく新しいプログラムに変更するという賭けにでる。事実、安藤選手は曲・振り付けともに直前に新しいものに変えたが、結果は惨敗となった。プルシェンコもかつて、ライバルのヤグディンに対抗するために、オリンピック直前にプログラムを新しくしたが、結局滑り込み不足は隠すことができず、ヤグディンには及ばなかった。モロゾフはこうしたリスクを避けつつ、曲だけを変更して、しかも演技(特にジャンプのタイミング)にピタリとリズムを合わせるという仕事をやってのけたのだ。 結果はご存知のとおり。荒川選手の個性と、フィギュアスケーターとしての彼女の成長にぴったりイメージのあう「トゥーランドット」は日本に唯一の金メダルをもたらした。「トゥーランドット」はフィギュアの世界では荒川選手のための曲となった。 そのもっとも有名なアリア「誰も寝てはならぬ」は、長くパバロッティのための曲と言われてきた。"Vincero'! Vincero'!(私は勝つ!)"と最後に、ドラマチックに歌い上げるパバロッティの高音の美声は文字通り、誰も寄せ付けない黄金の輝きに満ちていた。そしてそれがトリノで歌われ、その曲を使った演技がトリノの氷上で披露され、金メダルに輝いたということは、まさに二度とない「運命の奇跡」だったのかもしれない。パバロッティが次のオリンピックを見ることもなく世を去った今、そんなことを考えた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.09.07 22:31:37
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