<きのうから続く>
はっとして岸壁に目をやり、それから海のほうを振り返った。ちょうど打ち寄せた波がくだけたところだった。実際の波が打ち寄せ、くだけて音になったあと、くれた岸壁からその波のエコーが返ってきたのだ。まるで音響のよい劇場のように。そうか、人はきっと、こういう自然から劇場の音響という概念を発見したのか。
見上げると蒼白の月が中空にあり、水面には魚の鱗のような月光の断片が映って揺れていた。そして、波が寄せると、小さな自然の音が足元で響き、それから頭上の岸壁から増強された反響音が返ってくる。波に押されてすれる海岸の石の音まで聞こえる気がする。
それは、あまりに美しい夜の光景だった。月は月だ。月なんてどこにでもある。あの漆黒の空に浮いた月が、ここよりももっと神々しく見える場所だってあるだろう。海は海だ。海なんてどこにでもある。海があれば、波はどこででも寄せては返すだろう。ここより透明で美しい海だって、ここよりドラマチックにくだける波だって、あるだろう。花は花だ。花なんてどこでだって咲き、どこでだって散っている。ここの花より絢爛と咲き誇り、華麗に散る花だってあるだろう。
だが、そうしたものがすべて、道からはほとんど見えない絶壁に設計され、極限までとぎすませた感覚をもって内部を飾った建築物の中におかれているのを発見し、そしてそれらの醸し出す思いもかけない美に打たれるとき――やはりイタリアだ、本当に美しいものはイタリアにしかないのだと、そんなふうに思えてくる。
単に凝った建築を作るだけではない。わかりやすい贅を尽くしたインテリアで飾るだけではない。ひたすら手をかけた人工的な庭で訪れた人を驚かすだけではない。周囲の自然や環境、すなわちその土地の花や緑や海や山や月や風の奏でるハーモニーとひそやかに、しかし完璧に調和することを目指す姿勢こそが、「世界の文化財の40%を所有する国」イタリアを作り上げてきた。それにはアルプスの南、穏やかな気候の海に突き出た南北に長い半島という風土も大いに貢献しているかもしれない。イタリアの美は、わかりやすく提示された美だけではない。見る人すべて、訪れた人すべてにわからなくてもいいのだ。ふと自分だけが隠された美を発見する喜び。イタリアにはそれがある。そしてひとたびそれを発見してしまうと、人は次の発見を求めてイタリアから離れられなくなる。そうした魔力が、イタリアには確かにある。
翌朝も晴れて、気持ちのよいテラスで朝食。遠くにセイレーンの島が見える。写真の画像を落としたので、よくわからないかもしれないが、水平線の右、松の木のすぐそばに写っている。
ホテル客の中には犬を連れてくる人もいる。プライベートビーチへ向かう階段で出会った犬は、ご主人様以外のお客にも、何か食べ物がもらえそうだとなると近寄ってくる。
食べ物を一心に見つめている。待つ間によだれを垂らし始めた(苦笑)。