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カテゴリ:Movie(フランソワ・トリュフォー)
<きのうから続く>
『終電車』では、新進女優のナディーヌが映画『愛の天使』の主役をつかんで、売れっ子になるという筋書きになっている。この役について、アルレットは「あれは彼女にはまだ無理」と言っていたのだ。ナディーヌ自身も別の候補がいて、自分が選ばれるかどうかわからない、とマリオン(ドヌーヴ)に話していた。ところが、周囲の予想をいい意味で裏切って… …ということになる。 劇場公開版では、この『愛の天使』をナディーヌがやるかもしれないと聞かされたとき、マリオンが一瞬沈黙する場面がある。その沈黙には重い意味があったことが、DVDに特典映像として収録された未公開シーンを見てわかった。 劇場公開版では完全にカットされていたのだが、実はこの『愛の天使』という映画、ベテランの脚本家が最後の情熱をかけてマリオンのために書いたもので、病におかされて余命いくばくもなくなった脚本家自身が、マリオンを口説きに来るエピソードがあったのだ。 マリオンのほうは、「あれは最高の脚本だわ、素晴らしい」と言いながらも、自分の役ではないと思って台本をどこかにやってしまっている。そんなマリオンに脚本家は… と出演を要請する。 「あなたの写真を見ながら情熱をよみがえらせた」 だから… それに対してマリオンは、年齢が行ってしまったことを理由に… 「今はもうとても無理」だと辞退する。そして戦争が終わったら、自分のためにまた何か書いてもらえないかといった話をすると、脚本家は、 と答える。 そして、自分の病状が悪いことを話し、マリオンのランチの誘いも「病気を移したらいけないから」と断わって、スイスの療養所へと戻らない旅に出ていく。 『双頭の鷲』の再演をジャン・コクトーから何度も請われながら、ジャン・マレーがついに舞台に立たなかったのも、「君のために書いた」と言われた『バッカス』を演じなかったのも年齢が行き過ぎてしまった(とマレーが思った)せいだった。 自身のミューズである役者のために作家が情熱をかたむけて仕上げた作品を、当の役者が「自分にはもう無理」だと思ってしまうすれ違いの哀しさ。そして、それを別の若い役者が演じ、人気者になるという皮肉。本編ではカットされてしまったエピソードだが、マリオンの誘いを丁重に断わって階段を降りていく脚本家の痩せた肩が、やるせなくもきっぱりと凛々しい。人生とは、かくも思い通りにはいかないものなのだ。 さて、DVDの特典映像には、1981年のセザール賞授賞式で、『終電車』が次々と賞を獲得していく様子も収められている。すでにジャン・マレーはほとんど映画界からは引退して、南仏のヴァロリスで絵画・彫刻・陶器などの制作に没頭していた。芸術家ジャン・マレーの評価も侮りがたいものがある。作品のいくつかは美術館に収蔵されているし、モンマルトルやヴァロリスには、マレーの彫刻も野外展示されている。また南仏での芸術家としてのジャン・マレーについて書いた友人の書籍もフランスで2冊出ている。 そんなマレーだが、この年は、『終電車』がセザール賞の本命ということで授賞式にPresidentとして引っ張り出されている。 手前の老紳士がジャン・マレー。1人女性をはさんで奥に座っているのが監督のトリュフォー。このときマレーは60代後半。トリュフォーのほうは50そこそこ。ところがこの授賞式からたった3年後に、トリュフォーは50代前半の若さで亡くなってしまうのだから、人生はわからない。 壇上で受賞者とその作品を読み上げるマレー。もちろん作品のタイトルは『終電車』。 フランスのヌーヴェルバーグを代表する名監督トリュフォーに非常に大きな影響を与えたのが、誰あろうコクトーだった。といっても、トリュフォーが「何百回と見た」と言ったコクトー原作の映画は、コクトーのミューズたるマレーが演じた映画ではなく、メルヴィルが監督した『恐るべき子供たち』だった。 たぶんに『恐るべき子供たち』の影響が見て取れる『大人は判ってくれない』で1959年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞し、ヌーヴェルバーグの旗手として名声を得たトリュフォーは、コクトーへの恩返しとして、資金調達が難航していた『オルフェの遺言』のために、自身の映画の収益を提供する。 ところが、1959年当時、コクトーが手放しで絶賛したトリュフォー作品を、ジャン・マレーのほうは必ずしも評価していなかったようだ。 「あの作品(=トリュフォーの『大人は判ってくれない』)は素晴らしいと思います。君がそう思わないとしたら驚きです」 これは1959年5月、つまりカンヌ映画祭の直後にジャン・コクトーがジャン・マレーへ送った手紙の一節。ヌーヴェルバーグ映画に対する、当時のコクトーとマレーの微妙な感性のズレが感じられる。 トリュフォーの生き方も、若干コクトーとかぶる部分もある。トリュフォーは映画を通じて得た「父」と「息子」を生涯大切にした。また、政治的に右あるいは左に偏ることがなく、暴力的な映画を好まなかった。 そのトリュフォーのバイブルだった『恐るべき子供たち』は『オルフェ』と同年に撮られた。コクトー自身が監督した『オルフェ』と違って、『恐るべき子供たち』はコクトーが見出した新進の映画監督メルヴィルがメガホンを取る。だが、実際にはナレーションを担当したコクトーはしばしば撮影現場に赴いて、あれこれ口を出していたようだ。その意味では、コクトーとメルヴィルの協同監督作品と言えるかもしれない。 <明日はその映画『恐るべき子供たち』をご紹介します> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.07.07 00:22:31
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