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カテゴリ:Movie(フェデリコ・フェリーニ)
<きのうから続く>
友人の死という現実から逃れるために、マルチェロはひとときの快楽に身をやつすが、その果てに見たものは…… 腐敗を始めた肉塊…… 彼とコミュニケーションを取ろうとする娘が現れるのだが、 彼にはその心の声が聞えない。 この水辺のシーンは、マストロヤンニの最晩年の傑作『みんな元気』に出てくる海水浴のシーンと似ている。名優マストロヤンニの若き日の名作『甘い生活』に対する、オマージュ的な意味合いがあったのかもしれない。 つながることのできない人々の孤独やむなしい妄想や虚飾を描きながら、しかし、フェリーニの作品には、常にどこか不思議な明るさがある。 『甘い生活』に関しては、主役を演じたマストロヤンニという人が初めからもっている、雑草のような生命力がその印象に寄与したかもしれない。 フェリーニのファンでもあるアメリカ人監督マーティン・スコセッシは、そうしたフェリーニ作品の魅力について、「フェリーニは観る者に、『ぼくを信じて! さあ、ぼくの映画の中へ入っておいで』と語りかけている」と表現した。 つまり、ここに妄想と創作の違いがある。フェリーニの登場人物たちが――あるいはそれが一般人であっても――抱く妄想は、それ自体は他者を必要としない。妄想はあくまで自分の欲望に奉仕すればいい。妄想は百人百様であり、第三者からの共感なぞ関係ない、他者の眼はむしろ邪魔なのだ。 だが、創作は違う。創作というのは他者へのメッセージなのだ。だから、他者がたとえ存在しないとしても、創作は常に楽しい。自分のメッセージを受け取ってくれる人が、この世のどこかに、たとえ1人でも存在するかもしれない……そう思うことが、期待であり、希望であり、意欲になるからだ。 フェリーニという人は本能的に、その楽しさを知っている。だから、どんなにエキセントリックな世界を描いても、たとえ古代ローマの最高に退廃的な倒錯の世界が舞台でも、どこかに突き抜けた視線があり、ヒューマニズムがある。きわめて独りよがりな人々を描きながら、決して独りよがりにならない――だから、スコセッシのように強くメッセージを受け取る若者が現れる。暗く狭い世界で、他者を拒否することで得る、むなしい快楽だけに惑溺しない大きさがあるのが、フェリーニが巨匠と呼ばれるゆえんだろう。 実際、『甘い生活』の6ヶ月の撮影は、非常に楽しいものだったとマストロヤンニは自伝で語っている。「彼(=フェリーニ)にとって映画とは、いつだって遊びであり、お祭りであり、それもいつまでも終わらないお祭りだったのです」(『マストロヤンニ自伝』より) マストロヤンニはあまりに楽しかった撮影の日々が、たった6ヶ月で終わってしまったのが残念だったという。さらに6年ぐらい続いてほしかったと思うぐらいに。それはマストロヤンニにとって、俳優としてだけではなく、人間としても人生のなかでもっとも素晴らしい時間だったのだ。 フェリーニ作品と切っても切れない俳優になったマストロヤンニは、監督フェリーニを「長い旅を一緒にした」親友だと言っている。 その旅の果てに、親友が快復の見込みのない病に倒れたとき、マストロヤンニは目立たないようひそかに彼の病室を見舞い、そこで幻覚に悩まされていると言うフェリーニの話をつぶさに聞く。 聞き終わったあと、マストロヤンニは、 「それでオープニングシーンは決まりじゃないか」 と、フェリーニの幻覚を、2人で次に撮る映画のテーマに――という夢に変えて話している。 「そこから撮りはじめるとして、ラストシーンは君の故郷のリミニの海岸というのはどうかな。あっちこっちにスピーカーを置いてさ。君の映画音楽を流すんだ。ニーノ・ロータの音楽をね。すべてがリミニの海岸にとけこんでいくとき、ニーノの見事な旋律が流れてくる――フェデリコ、きっと素晴らしい映画になるよ」 観客のいない病室で2人だけで交わした会話、そこに混ざり込む2人の現実と夢……つまりは長い旅である人生そのもの――20世紀を代表する名監督と名俳優が最後に作りあげた、最高の「友情のシーン」だろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.09.25 02:44:40
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