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テーマ:レンタル映画(818)
カテゴリ:Movie(フェデリコ・フェリーニ)
<きのうから続く>
ブロンド君が「剣」を取り戻しているころ、1人で外にいた黒髪君は、刃物をもった暴漢に突然襲われる。自分の命が危険にさらされたとき、黒髪君は思わず大声で、 「エンコルピオ!」 と、ブロンド君の名を叫ぶ。「助けてくれ」の言葉はない。だがそういう意味だ。黒髪君がブロンド君を頼ったのは、このときが初めて。 物語の最初で2人は、1人の少年をめぐって取っ組み合いの大喧嘩をした。「もう友達ではいられない。別々の道を行こう」とブロンド君に言われて、黒髪君は彼のもとを去った。だが共に奴隷として捕らえられた船の中では、ブロンド君が集団暴行を受けると、黒髪君が助けに来たのだ。 もちろん、黒髪君の叫びは、「剣」を取り戻すべくエノテアを待っているブロンド君には届かない。 なんとか暴漢を倒したものの、致命的な重傷を負った黒髪君。それでも、よろよろしながらブロンド君のところにやってくる。 これまでどちらかというと下品で粗野だった黒髪君。ところが、ブロンド君に「Andiamo(行こうぜ)」と声をかけるこのときの表情は、ひどく真剣で、これまで見たこともないぐらい美しい。 「剣」を取り戻して有頂天のブロンド君は、黒髪君の異変に気づかない。外へ出たとたん、力いっぱい走り出す。 黒髪君にはもはや彼を追う力はない。倒れそうになりながら、無言のまま元気に走っていくブロンド君を見ている。 …と、希望にあふれた声で黒髪君を誘うブロンド君。彼らはいつもなぜか一緒にいたが、はっきり口に出して「一緒に行こう」とブロンド君が黒髪君に言ったのは、これが初めてなのだ。 もともとの身分は黒髪君のほうが低かった。冒頭で2人のしゃべる台詞を聞いても、語彙や表現力に「格差」がある。黒髪君にはブロンド君のような教養はない。ブロンド君は、黒髪君のことを「体を売って自由になった男」と蔑んでいた。黒髪君は「友情なんて、都合のいいときだけさ」とうそぶいていた。だがとうとう、ここでブロンド君は黒髪君に、「お前と一緒に、どこか遠くへ行きたい」とハッキリ言葉にして言うのだ。 その台詞を聞くか聞かないかのうちに、黒髪君は倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまう。最後の最後まで、「痛い」も「苦しい」もない。 黒髪君のブロンド君へのこの世での最後の言葉もまた、「Andiamo(行こうぜ)」だったのだ。一緒に行こう――お互いにそう言いながら、結局2人はもうそれ以上、一緒に行くことはかなわなかった。 黒髪君が死んでいるのを見つけ、初めて彼が深い傷を負っていたことを知るブロンド君。観客は暴漢に襲われた黒髪君が、ブロンド君に助けを求めたことを知っている。ブロンド君は、知らない。だからなおさら、ひざまずいて友の死を悼むブロンド君の独白が、観る者の胸にいっそう切なく響いてくる。 ブロンド君(泣きながら黒髪君の手に自分の手を重ね)「あの傲慢なお前はどこに行った… …はかなき者よ、心を夢で満たそう。神々よ、何と目的地から離れていることか」 「はかなき者」とは誰のことだろう? もちろんはかなく死んでしまったのは黒髪君だ。だが、黒髪君の死を通して、ブロンド君は自分も同様に「はかなき者」だということを知ったのだ。そして、生きとし生けるすべての者は「はかない」のだ。だからこそ、「心を夢で満たして」生きようと、ブロンド君は語りかけている。 「何と目的地から離れていることか」――ブロンド君は黒髪君と遠くへ行きたかった。どこかはわからない。だが、ここではないどこか、夢がかなう場所だ。自分はまだ、そこからは遠いところに留まっている。これもまた、あらゆる時代の若者が、未来への憧憬とともに抱く焦燥感だ。 そして、物言わぬ友を悼む青年の心そのもののように、重く垂れ込める雲。 画面の3分の2を、大きな曇天が占めている。 『サテリコン』の映像の魅力は、こうした非常に広い景色を大きく撮ったショットと、登場人物の感情の動きをハッキリ映し出すドアップのショットが効果的に使われることにもある。観客は、あるときは壮大なランドスケープの中の小さな存在となり、あるときは同じく小さな存在であるはずの登場人物の感情に、至近距離で寄り添うのだ。 共に旅してきた友の突然の死。ひとしきり悲嘆に暮れたあと、青年は立ち上がり、1人で歩き出す。 少しだけ雲が上がり、天と地の間から、明るい光が射しはじめた。光に向かって歩くブロンド君。 この黒髪君の死の場面に満ちあふれるのは、ヒューマニズムだ。そう、フェリーニという人は、どんなにグロい映像を撮っても、どんなに倒錯した世界を舞台にしても、ヒューマニズムを決して手放さない。それがヴィスコンティやパゾリーニにはないフェリーニの魅力。 そういえば、この粗野・乱暴・身勝手・奔放・天真爛漫・純粋な黒髪君のキャラクターは、どことなく『7人の侍』(黒澤明監督)の菊千代に通じるものがある。フェリーニ自身も、『7人の侍』でもっとも印象に残ったシーンとして、戦火の中で、燃えさかる水車小屋から間一髪助け出された百姓の赤ん坊を、ミフネ演じる菊千代がその手に抱いて、「この子は俺だ。俺もこうだったんだ」と叫ぶ場面をあげている。菊千代は他の仲間の侍とは違い、実は百姓の出。見かけは屈強だが、侍にはあるまじき振る舞いの数々で、仲間には出目はバレている。菊千代自身は身分を隠していたのだが、実は焼け出された赤ん坊と同じく戦争孤児だったということを、その場面で間接的に告白した。そして、「この子は自分」だと菊千代が言うことで、彼が戦闘で――わりあい「簡単」に――死んでしまっても、観客の心は救われる。「菊千代は死んでしまった。でも、あの赤ちゃんは生きているじゃないか」と。そうやって菊千代と赤ん坊の命がつながっていくのだ。 『サテリコン』でも、ブロンド君が黒髪君の手を握り、「はかなき者よ、心を夢で満たそう」と語りかけることで、終わった命がまだある命に重なっていく。人はある時、あっけなく死ぬ。だが、死ぬまでは、誰しも心を夢で満たして生きることができる。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.11.06 03:02:53
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