|
もともとは20世紀初頭に、フランスの作家ガストン・ルルーが小説として発表した『オペラ座の怪人』。
サイレント時代から映画化も何度となくされているが、舞台ではアンドリュー・ロイド=ウェバー作曲のミュージカル版が、何と言っても有名だろう。フィギュア・スケートの楽曲としてもしばしば使われるが、そのほとんどがウェバー版。 Mizumizuもウェバー版のミュージカルは、ニューヨークで3回、東京で1回観ている。映画も何作か観たが、2004年のジョエル・シューマッカー監督の映画『オペラ座の怪人』は、ウェバー版ミュージカルの映画化だ。 その分、舞台と映画の表現手法の違いが楽しめる作品になった。また同時に、この映画の舞台美術が、かなりジャン・コクトー世界の流れを汲むものであることにも気づかされた。 そもそも、クリスティーヌが怪人(ファントム)に導かれていくシーンには、「鏡通過」がある。まさしくコクトーワールドだ。しかも、鏡の向こうには人の手が燭台になっている通路がある(映画のこのシーンについてはYou tubeのこちらの動画をどうぞ)。 これは、モロにコクトー監督・クリスチャン・ベラール美術の『美女と野獣』 の世界だ。 オペラ座の地下世界に潜む怪人と謎めいた古城に棲む野獣というのは、確かに「外面の醜さ」「誇り高さ」「孤独」と言ったキーワードでつながっている。 また、クリスティーヌと怪人が舟で進んで行く場面は、ジャック・ドゥミー監督『ロバと王女』に似たものがある(こちらの動画の最後のほう)。『ロバと王女』がコクトー作品を踏まえたものであることは、すでに述べた。 緑に囲まれた明るい野外、清らかな流れの川。かわいらしく飾られた舟の上で2人は、寄り添って愛し合うこと、生きることの素晴らしさを歌い上げる。『オペラ座の怪人』で怪人とクリスティーヌが乗っているのは、暗く淫靡な世界に向かう舟。この2つのミュージカルの場面は、人の愛の「明」と「暗」であり、やはり地下水脈でつながっているように思う。 そして、舞台と映画の違いという意味で一番おもしろかったのが、『Point of No Return(ここまで来たらもう引き返せない)』の場面。 このミュージカルの見せ場の1つだが、誘惑し合う怪人とクリスティーヌを客席から見つめるラウル(クリスティーヌの恋人)の表情をアップで映すことで、映画ならではの感情表現がなされている。どこかで強く怪人に共鳴するクリスティーヌの心、音楽を通じて結びついた2人の見えない絆をラウルが感じ取ってしまい、思わず涙を浮かべるのだ(動画はこちら)。 ラウルだけではない。息を詰めて2人を見守る周囲の人々の表情も、怪人とクリスティーヌの「ただならぬ」雰囲気を側面から盛り上げる。こうした部分部分の登場人物のカット割りは、舞台ではできない。「ラウルの涙」を挿入することで、映画では演出家の解釈がより明確に伝わってきた。バックダンサーの踊りも、男女の昂まりを暗示する。 余談だが、高橋大輔選手の2006/2007シーズンのフリーの楽曲は、この『オペラ座の怪人』メドレーだった。後半の怒涛の連続ジャンプのあたりで使われたのが、この場面のPoint of No Return。 いつ観ても、卓越したプログラムで、振付師モロゾフの代表作だと思うが、振付やスケーターのパフォーマンスの素晴らしさほかに、音楽編集の凝り方にも驚かされる。オペラ座の怪人というと、どうしても The Phantom of the Opera is there - Inside my/your mind という最も印象的なメロディーの入るThe Phantom of the Opera か、あるいはThe Music of the Night を使いたくなると思うのだが、モロゾフ+高橋大輔の『オペラ座の怪人』には、この代表曲2曲が入っていない(と、思う)。かわりに、Down Once MoreやMasqueradeの旋律を効果的に組み入れている。 通な編集だなあ… ドラマ性のある振付はもちろん凄いが、音楽構成も考えるだけで大変だ。 しかし、採点基準が変な方向に行き始めた、このシーズンの翌年あたりから、モロゾフの振付はパターン化してきたように思う。そして、フィギュアスケートは今季、振付も全体的に劣化した。 閑話休題。 映画のMasquerade(仮面舞踏会)の演出も、舞台とはずいぶん趣向を変えていて、非常に面白かった。パントマイム的な動きに、小道具の扇子が不思議な雰囲気を醸し出している。舞台では、大階段で行き交う人々の群舞(つまりは大きな人の動き)を見せる演出だったが、映画では、全体的な動きに加えて、「単独の踊り」「グループの踊り」を独立したショットで切り取って見せている。ダンサー1人1人の力量も高いから、独特な創作ダンスシーンとして楽しめる。 イマドキのオペラ演出とのつながりを感じさせたのが、クリスティーヌが父親の墓を訪ねるこのシーン。モノトーンの雪の中をヒロインが進んでいくのだが、DAAE廟のあたりに置かれた彫刻がなぜか、「ものすごくデカい」のだ。人がヤケに小さく見える巨大な彫像を置くという演出は、イタリアの舞台美術家を中心に、オペラの世界でちょっと流行っている。日本の灯篭みたいなのが出てくるのも、「ああ、『蝶々夫人』ね」と出所がわかってニヤニヤしてしまう。このシーンは、モノトーンが長く続くからこそ、廟がオレンジ色に光ると、その色が非常に強く観る者の意識に訴えてくるようになっている。 フランコ・ゼフィレッリによれば、モノトーンを続けたあと、1色だけ印象的な色を登場させるという今日よく見られる舞台演出を最初に創案したのは、クリスチャン・ベラールだという。人の手が燭台になっているという『美女と野獣』のアイディアもベラールのものだと、ジャン・マレーは自伝で書いている。 ゼフィレッリも、ベラールの美意識を引き継ぐ存在だったが、ウェバー版映画『オペラ座の怪人』で美術を担当したアンソニー・プラットも、同じ系譜に位置づけられる。 映画ではこの後、ヒロインの恋人ラウルと怪人の決闘になるのだが、「動けない」役者の立ち回りの典型、つまりカメラばっかりが動く。いくら演出で工夫しても、相当鈍そうな2人… 特にラウルが颯爽としていないが、どうにもイケナイ。 最近のミュージカル映画は歌の吹き替えをしないことが多いが、「歌う人」と「演じる人」は切り離してもいいのではないかと思う。『オペラ座の怪人』の主役3人は、それぞれルックスも歌も演技もかなりのレベルであることは間違いないが、逆にどの要件もバ~ンと突き抜けてはいない気がする。クリスティーヌは脚線美は瞠目に値するが、顔の表情がワンパタだし、ラウルはイケメンだが、もうひとつ華がない。怪人役は非常に頑張っていると思うのだが、「魔的な何か」がもう少しだけ足りない。3人とも歌唱も悪くないが――いや、相当うまいと言えると思うのだが――感激するほどでもない。役も歌もまったく別のキャスティングにしたほうが、完成度が上がったのではないか。 カトリーヌ・ドヌーブは歌など歌っていないが、『シェルブールの恋人』も『ロバと王女』も名作だし、観てるほうは、別にドヌーブが歌ってなくても気にしない。危険なアクションシーンではスタントマンを使うように、歌は歌が突き抜けてうまい人を選び、役者は顔や雰囲気や演技力で選んで役割分担をさせたほうがいいのではないだろうか。 ミュージカル映画で大事なのは、なんといってもやはり歌唱で、独唱だけでなく合唱も楽しみの1つ。この映画で主役3人の最高の三重唱が堪能できる――つまり、歌唱の醍醐味を味わえる――のは、ラスト近くで、怪人に連れ去られたクリスティーヌをラウルが救出に来るシーン。オペラ的な三重唱では、作曲家ウェバーの力量が冴えわたっている。(動画はこちらにあるが、動画をアップした人が編集して、クリスティーヌはファントムを選んだことにしてしまったよう・笑。ただ、3人の掛け合いはかなり入っている) ラウルの命を救いたくば、自分を選べと脅す怪人。怪人の孤独の深さを知って涙するクリスティーヌ。そして、「You are not alone(あなたは1人じゃない)」の感動的な台詞… 怪人がクリスティーヌを得られなかったのは、これまでに彼が犯してしまった罪ゆえだったのかもしれない――キリスト教的な「罪と罰」の倫理観を強く感じさせるエピローグだ。従来の映画『オペラ座の怪人』と比べると、最後に怪人の孤独と背負った運命の哀しさが際立って胸に迫ってくるのも、ウェバー版『オペラ座の怪人』の特徴。 と、まじめな話はここまでにして… 突っ込まさせていただくと、ラウルは多少… いや、だいぶ情けなくないですか? ヒロインを救いに来たハズが、あっという間に怪人に縛り上げられている… 弱すぎ… こんな役立たずでも、イケメンで金持ちならい~のか? それはそれで、オンナの真実を突いているけどね。 怪人とクリスティーヌのハッピーエンドに作り変えたくなる気持ちもわかる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.25 22:23:49
[Art(オペラ・バレエ・ミュージカル関連)] カテゴリの最新記事
|