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カテゴリ:Essay
作曲家・音楽プロデューサーの加藤和彦氏が自殺したと、テレビが言っていた。
かとうかずひこ、かとうかずひこ・・・ 名前は聞いたことあるな、と思っているうちに代表作が流れ出した。 ♪オラは死んじまっただ~ 縁起でもない歌詞だが、この曲を作った人なのか・・・ ♪かな~しくて かなしくて とてもやりきれない あ~、知ってる知ってる。すごく古い歌だが、よく聞く。これも彼の作曲だったのか。 かとうかずひこ、かとうかずひこ・・・ まだ知っている歌がある気がする。 ♪あの~素晴らしい愛をもう一度~ それもそうなのか。でも、それじゃない・・・ かとうかずひこ、かとうかずひこ・・・ 何度も名前を繰り返してみる。やがて記憶の壷の底から、「彼女」の声が聞こえてきた。 「これは、かとうかずひこの曲」 確か「彼女」から、テープ(当時はCDはなかった)を借りたのだ。「彼女」の部屋で聞いたその曲があまりに衝撃的だったから。借りて何度も聞くうち、返すのが惜しくなった(オイオイ)。「もういいかげん、返して」と言われても、なんだかんだ言って手元に置いていた(ダビングができる機械を持っていなかったんだな、多分)。 けど・・・ 誰が歌った、何と言う歌だっただろう? 一生懸命記憶の壷をさぐる。 ♪旅無残~ 暗い壷の底から、やっとぼんやりと断片的な歌詞が浮かんできた。ミもフタもない歌詞だ。歌っていたのは女性。はて、名前はなんだっけ? ウィキペディアで加藤和彦の過去の作品を調べてみた。 「旅無残」 ない・・・ 仕方ない、「彼女」に聞こう。 ゲイ大時代に知り合った女友達。最初の出会いも憶えている。 大学構内の絵画棟という建物の1階で、確か最初のデッサンの授業だったのだ。薄暗いホールに、大小さまざまな石膏像が並んでいる。鬱々とした空間だった。木製のちゃちな椅子に腰掛けて、授業の開始を待っていたら、椅子をずずっと引きずる音がして、隣に座ってきた女の子がいた。 それが「彼女」だった。椅子を引く腕や、座る動作が最初から大人びていた。大学一年の女の子なんて、右も左もわからないウブも多いが、「彼女」はとっくに「女」だったのだ。髪は長くして、ウェーブをかけ、顔立ちはレオナルドの描いた聖アンナを思わせた。 最初から親しかったわけではない。だが、自分で「好き嫌いが激しい」と言うわりには、寛大で優しい、母性的な性格で、交友範囲も広く、Mizumizuも何となくその輪の中にいた。 群がってくる男の子も多かったが、「彼女」はうまくあしらっていた。ただ単に異性にモテる美人というだけなら、「彼女」とそれほど親しくなろうとは思わなかっただろう。だが、「彼女」には、Mizumizuを惹きつけてやまない「言葉」があった。 「言葉」は不思議だ。どれほど修辞を凝らしていても、どれほど理論的に筋が通っていても、まったく自分の内側に入ってこない「言葉」もある。こちらの身体の外をするりと落ちてしまう「言葉」を話す人、書く人とは、結局理解しあうことはできない。 逆に何気ない「言葉」、さりげない「言葉」が、まるでキューピットの放った矢のように、ココロの真ん中に命中することがある。そういう「言葉」を持った人とは、お互いに興味が持てる。相手の言っていること、言わんとすることが、よくわかるのだ。 「ウマが合う」というのは、こういうことかもしれない。 「彼女」は、8ミリの映像作品を撮っていて、それを見せてもらったことがある。それはまた衝撃的だった。淡々とした口調で、かつて想いを寄せた男性と、現在付き合っている男性について「彼女」自身の声で語る。女の内面を抉り出す、一種の私小説でありながら、どこかファンタスティックな雰囲気に溢れていた。 「彼女」は自分が髪をのばした理由を、「半径15センチの外界を遮りたかったから」だと告白する。「私より15センチ上に顔のあったあなた」を思いながら、現実に「あなた」と呼ぶ男性は、「ずいぶん入れ替わってしまった」。そして今の「あなた」は「私にリンゴをむいてくださる」。それをありがたく受け取りながら、「なんだか、私までむけてしまったようだ」とつぶやく。 ずいぶん前に1度見ただけの作品だが、そのさりげない「言葉」がハートに命中し、忘れることができない。 そして、「彼女」が取り上げたテーマ。 愛してくれる男性がいて幸せなはずなのに、「彼女」はどこかで倦怠し、そこはかとない孤独を感じている。自分を縛る「愛」に密やかな苛立ちを感じているのかもしれない。それは別れの予兆でもある。 愛されながら孤独――それはMizumizuにも共通する重いテーマだ。子供のころから今にいたるまで、Mizumizuには常にその感覚がある。だが、あまり口に出して言う勇気のないことだ。 それを「彼女」はいとも冷静に、いとも生々しく、そして幾分ナルシスティックに、映像にして見せた。 そして「彼女」は、その作品で、トリノ国際ヤングシネマフェスティバルの8ミリ映像部門の大賞を獲ってしまった。 イタリア人が、あの作品にMizumizuと同じような(かどうか、わからないのだが)感動をもってくれたのかと思うと、なにやら嬉しかったことを憶えている。 「ヴィスコンティ映画なら、やっぱり私は『ベニスに死す』かな」 と「彼女」は言った。 『白夜』『熊座』『家族の肖像』を好むMizumizuにとって、『ベニスに死す』は多少冗長なのだが、そもそもヴィスコンティ監督作品を好む人間が大学時代には周囲にあまりいなかったから、「彼女」は数少ない、その手の映画について語り合える相手だった。 私たちは2つの円だった。一部が重なりあっている2つの円。 重なった部分にヴィスコンティや「彼女」の撮った8ミリ作品や、そして、あの「旅無残」の歌が散らばっている。 うろ覚えの歌詞をメールに書いて、「彼女」に聞いた返事は、すぐに来た。 「問い合わせの歌は中山ラビのMUZANだね、懐かし~っ」 ああ、そうか。中山ラビというシンガーだったんだ。「旅無残」は歌詞の一部で、タイトルはMUZANといったのか。 「確かにその曲は加藤和彦作曲中山ラビ作詞、アルバム「MUZAN」が加藤和彦全面プロデュース、それ迄フォーク詩人色濃かった中山ラビが世紀末っぽくイメチェンしたと賛否両論あったアルバムでした」 へ~~~ 「フォーク詩人」「世紀末っぽくイメチェン」――これはMizumizu円の外にある、不可思議な響きをもった言葉だ。そういう時代があった、ということなのだろう。 ♪夜の帳をおしのけて あなたが突然現れた わけも言わず抱きしめて 私の心に火を灯す 行って帰らぬ愛の旅 ならば今宵が瀬戸際で やさしい思いもないままに 求める人にすがりつく 川は流れて消えていく 焦るあなたがいじらしい いつか描いた幻の摩天楼から人が降る ゆくにゆかれぬ愛の旅 あきらめようと頷いて 冷たい肌を取り戻す 求める人を振り切って それでいいわと声がする それでいいわと声がする 聞いてはならない幻の誘いに乗って旅無残 この曲が作られたのは1980年代の初めらしいのだが、やはり「言葉」がハートにぐさぐさと刺さってきた。こうしたニベもない詞は男には書けない。あるいは少し、椎名林檎に似ているだろうか? 女の性の深淵を見つめて表現するのが巧みなタイプは、いつの時代にもいるのだろう。そして、それにストレートに共感できるタイプも。 ♪今日はどこまで流れゆく あしたはどこの人と寝る いっそこのまま 燃え尽きてしまいたい 作曲家の訃報を聞いて、ほとんど忘れていた歌を思い出した。歌は歌としてだけではなく、思い出とともにある。 ゲイ大の正門。白い横断歩道で音校と美校に分かれている。 美校の門に、「彼女」が立っている。 動物園のほうからあがってくるMizumizuに、何か声をかけている。 隣りには、「彼女」を追い回している男の子のうちの1人。 タバコを手に持って立っている「彼女」の凛たる姿は、今もMizumizuの視界に鮮やかだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.10.20 22:58:06
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