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カテゴリ:Essay
Bunkamura ザ・ミュージアムで8月末まで開催された「ブリューゲル版画の世界」展。 ブリューゲルは16世紀にネーデルランドで活躍した画家だ。ネーデルランドとは現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを含む。ブリューゲルはアントウェルペン(アントワープ)が活動拠点だったので、現在の国で分ければベルギーの画家ということになる。 生没年代は1525年(あるいは30年?)~1569年。イタリアならルネサンス時代に属するが、北方ではこの時代はまだ中世末期とされることが多い。ブリューゲルはイタリアを旅行し、ルネサンスの息吹を北方絵画にもたらしたので、北方ルネサンスの先駆け的存在だとも言えるが、その世界観は明らかに中世に属している。 Mizumizuは10代のころからブリューゲルの世界観に常に魅せられてきた。たとえば『イカロスの墜落』・・・ 作品のテーマであり、ギリシア神話の中でも極めて大きな事件であった「どこまでも高く飛ぼうとした少年の悲劇」が、ここではほとんど誰にも気づかれていない。 一般庶民の日常生活の中にイカロスの悲劇は埋没してしまっている。こうしたアイロニーにMizumizuは近代人に通じる洞察力と精神性を見たのだ。それは恐らく、黒澤明の「七人の侍」にも通じる世界観でもある。 だが、Mizumizuがティーンエイジャーだったころの日本人が一般に好んだのはもっぱらフランスを中心とする印象派の絵画。イタリア・ルネサンスの巨匠ですら、知られた作品は限定的で、さらにマイナーな北方絵画のしかも中世末期の作品なんかに興味をもつ好事家はほんの一握りだった。 「ブリューゲルの版画展」は確か1度どこかで開催された覚えがあるが、見に来る人なんて本当にわずか。ブリューゲル作品でも、色彩のある板絵なら少しはアピールしたかもしれないが、版画となると展覧会場はガラすきだった記憶がある。 だが、Bunkamura ザ・ミュージアムの様子は昔とはガラリと変わっていた。渋谷というロケーションもあるにせよ、中は若い世代でいっぱい。見に行ったのが週末だったせいか、重要な作品群の前には行列ができるほどだった。 この成功は、宣伝手法が功を奏したからに違いない。こちらのPR動画を見てもわかるとおり、「400年前のワンダーランドへようこそ」というキャッチコピーで、イマドキのアニメや漫画に通じるようなブリューゲルの「変キャラ」にスポットを当てている。 ブリューゲルの描いた怪奇なキャラクターが、日本の漫画に出てくる異形の存在にどこか似ていることは、昔からMizumizu自身気づいていた。だが、今と違って漫画の文化的地位は非常に低く、アカデミックな美術史研究者が真面目に取り上げることはなかったのだ。 当時はもっぱら、ヨーロッパの研究者の研究を紹介することに主眼が置かれていた。ヨーロッパ世界でもっとも大切なのはキリスト教的価値観。キリスト教的な感性では明らかに異端に見える「変キャラ」のうごめく世界を描いたブリューゲルや、彼にインスピレーションを与えたボッシュといった中世の画家が、純粋なキリスト教徒であったのか、異端であったのか・・・そんな論議を真剣に紹介していたのが昔の日本の展覧会だ。 だが、もともとほとんどがキリスト教徒でない日本人にとって、そんな話はまったく興味の対象外だろう。「キリスト教」あるいは「キリスト教徒」にとってこうした作品がどういう意味をもつかなど、日本人にはどうでもいいことなのだ。それよりも、1人のクリエーターの創り出した異形の存在が放つ風刺やユーモアに日本人は惹きつけられる。マンガチックなブリューゲルの「変キャラ」は、「表現するものたち」が本能的に関心をもつ「隠れた人間性」を象徴している。その普遍性は時代も地理も超えるのだ。 そして、恐らく日本人の漫画家は、こうしたヨーロッパ中世期の画家の作品からもインスピレーションを受けたはずだ。絵を描く人間なら、ヨーロッパ絵画の図版ぐらい目を通すだろう。虫や鳥といった人間以外の生物と人間が合体したようなキャラクター、あるいは壷や木といった無生物と人間が合体したようなキャラクターは、それがキリスト教の図像学でどういった意味をもつかなどということとは関係なく、あらゆるクリエーターに視覚的刺激を与えうる。 若者が大勢この展覧会にやってきて、ヨーロッパ中世の巨匠の創り出した「変キャラ」を興味ぶかげに覗きこむのは、だからある面では、ヨーロッパ絵画にも学んだ(であろう)日本人漫画家やアニメーターの功績だと言ってもいいかもしれない。 ヨーロッパの画家が創り出した「異形の存在」と日本人漫画家が描いたそれとには、視覚的に共通する部分が多い。キモチ悪いのにどこかユーモラスに描かれたキャラクターを見るとなおさらそう思う。 ただ、ベースとなっている思想には明確な違いがある。アニミズム(精霊信仰)の国である日本は、モノや場所にはそれぞれ神様が宿ると信じている。それを視覚化したのが、日本の漫画の「異形の存在」のルーツだろう。一方、ブリューゲルの「変キャラ」で人間と合体したモノは、キリスト教的図像学の意味から読み解けるものが多い。割れやすい「卵」はこの世の「はかなさ」、目に見えない楽しみを奏でる「楽器」は「虚栄」を表す・・・というように。 アトリビュートと擬人像もキリスト教図像学における決まりごとだ。たとえはこの「七つの大罪 傲慢」を見ると・・・ 中央に鏡をもった女性が立っている。 鏡は「傲慢」を意味するアトリビュート(持物)、だからそれをもっている女性は「傲慢」を象徴する擬人像だということになる。 だが、個人的にはそんなことより、鏡に写った女性の顔が「ニコちゃん人形」みたいにマンガチックに描かれていることのほうがおもしろい。こうした「遊びゴコロ」も、ブリューゲル作品の大きな魅力だ。 ヨーロッパ中世期の画家は、キリスト教的な理論でキャラクターの多くを描いている。だが、悪魔的風貌の動物的なキャラクターは、キリスト教図像学ではなく、もっと古い時代にそのルーツを求めることができるかもしれない。 ヨーロッパの古い時代、具体的に言えばロマネスクからゴシックにかけて建造された聖堂の柱頭には、「グリーンマン」と総称される半植物半人間の怪奇なキャラクターが掘りこまれていることがある。最近の研究によれば、こうしたキャラクターのルーツはヨーロッパの先住民族ケルト人の文化にあるという。 ケルトはアニミズムの民族だった。彼らを駆逐した一神教のキリスト教徒は、アニミズムを野蛮なものと蔑視するようになる。そこでケルト民族が信仰していた、生物・無生物を問わずあらゆるモノと場所に宿る精霊という概念とキリスト教の悪魔の概念が結びつき、ケモノめいた風貌の悪魔像が生まれ、キリスト教の世界では憎むべき存在として定着していったというのだ。つまりグリーンマンは、ケルトの精霊が悪魔に収斂されていく過程のもっとも初期の姿だということだ。 ブリューゲルの「変キャラ」にも悪魔的風貌のものがいる。キリスト教図像学では読み解けないこうしたキャラクターの姿はやはり、ケルトの精霊をキリスト教徒が侮蔑的に再解釈した「異形の存在」の系譜につながるのかもしれない。 それを見て、キリスト教的な「精神の縛り」のない日本人がまた、自由な想像の翼を広げ、自分なりの解釈をする。生み出されてから400年もたっているというのに、ブリューゲルの世界観は日本という風土でさらに重層的な感動を呼び、フレッシュな目をもった若い世代がその作品に新たな存在意義を見出す。おもしろい現象が起こったものだ。 今回の展覧会ではブリューゲルの変キャラを気の利いた商品にしていた。あんまり楽しいので、いろいろ買ってしまったMizumizu。 これは「傲慢」Tシャツ 「傲慢」の中に出てくる変キャラと・・・ アトリビュートをもった擬人像を脇にあしらい・・・ 逆サイドには日本語で「傲慢」の文字・・・(苦笑)。 こちらの黒いTシャツは、ほとんど全面黒なのだが、後ろのお尻の上あたりに、キモ悪キャラが3つ並んでデザインされている。 どちらもバカバカしいTシャツだが、デザイン配置が妙に凝っているのがおかしい。 ピルケース。銘菓「ひよこ」がマントを着て楽器を背負ったような、このほのぼのキャラ・・・日本製としか思えない(?)。 変キャラ付箋。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.09.15 02:22:44
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