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カテゴリ:Essay
山口県民の郷土の誇り、萩焼。山口県で萩焼の食器をもっていないという家は、ほとんどないのではないか。 山口県民には馴染みの深い萩焼は、しかし関東では、茶人を除けばほとんど知られていない。九州の有名窯元のものならデパートに多く入っているが、萩焼はあまり見ない。関東人に萩焼がもうひとつ受けない理由・・・それは個人的には、あの人肌を思わせるくすんだ色調にあるように思う。 土色寄りになるか灰色寄りになるか、あるいはピンク寄りになるかという違いはあるにせよ、萩焼といえば基本は肌色というイメージがある。 もちろんそれがすべてではない。すべてではないが、イメージとしては「萩焼=肌色」なのだ。高校時代までを山口県で過ごしたMizumizuだが、土着の山口県民でないせいか、何を隠そうあのぼやけたような肌色が苦手なのだ。 模様めいた違った色合いの差したものなど、アトピー性皮膚炎の持病をもっている身としては、なんだか皮膚に浮いた疾患を見ているようで、ことさら気味悪く感じてしまう。 だが、萩に行って有名な窯元巡りをしてみると、一般に安く流通している萩焼のイメージを覆す作品を作っている陶芸作家も多いことに気づく。 先日、そんな窯元の1つである大屋窯を萩に訪ねてみた。 山と川に挟まれた緑豊かな土地にある大屋窯のショップは、天井の高い簡素な東屋風で、とても洒落ている。敷地は傾斜地ながら非常に広く、自然の勾配を活かした登り窯やアトリエのほかに、お願いすれば母屋も見せてもらえる(もしかしたら、買い物した人限定かもしれない?)。 母屋は思い切り広く、隅々にまで和的な美意識が行き届いた大豪邸(←東京の人間からすれば)だ。ゴージャスで贅沢な暮らしをしているということではなく、自然の懐に抱かれて、精神的に余裕をもった生活しているのがヒシヒシと伝わってくる。 創意に溢れた美的な暮らしを東京で見ることはほとんどない。単なる金持ちや資産家ならいくらでもいるが、それと「うつくしく、豊かな暮らし」は別のものだ。 大屋窯の器たちは、萩の街中のお土産屋に置いてある手ごろな量産品に比べると格段に高いが、質の高さも値段に見合って図抜けている。 まず気に入ったのはこの陶器の大皿。茶色の地に白っぽい釉薬のムラがいい味を出している。カレーやパスタにぴったりだと購入決定。 こちらは土色の昔風の色調に、柄がモダンなお香立て。 葉を象った、灰色がかった白のソープディッシュ。真ん中あたりにポツッと落ちた、たった1つの茶色の斑点が、ナチュラルなアクセントになっているのも憎い。こちらは陶器にしては表面がつややかだと思ったら、磁器なのだという。陶器のもつ素朴さが磁器にしかない洗練と結びついて、不思議な佇まいを見せている。 聞けば、陶器のもつ趣きを磁器と合体させるというのが、大屋窯のライフワークの1つでもあるという。 こちらがその「磁器なのに陶器のようなニュアンス」をもった作品の代表例になるだろう。大屋窯の濱中史朗氏の作品。フォルムは古代ギリシア時代からあるような、極めてクラシカルなもの。釉薬を使っていない表面の質感はテラコッタ風なのに、色はといえば、どこまでも白い。 こちらに同氏の無釉白磁の作品が並んでいるが、骸骨が中央にあるのが暗示的だ。アトリエにも、ひたすらシンプルなフォルムで、ひたすら骨のように白い磁器作品がさかんに並んでいた。つまりこの作家は、骨めいた白という磁器の色に妄執にも似た愛着を抱いているのだろう。 白は純潔を表す色でもあるが、骸骨に代表されるように終焉の色でもある。濱中史朗の無釉白磁は、穢れのない無垢な白というより、穢れさえ朽ち果てた先の白ではないか。 Mizumizuが買った甕風の花瓶は可憐なレース柄が特徴的なので、「骨めいた白」のイメージは薄まっている。だが、この甕のような花瓶を掌におさめてみると、クラシカルでシンプルなフォルムは遠い過去を、洗練の極限を極めた一色の白ははるか未来を暗示しているような気がした。繊細な柄の花瓶のはずなのに、骨壷のようでもある。きれいな色のはずなのに、それがいつのまにか不気味さを帯び、不気味さの中に静かな美しさが宿る。 「一楽二萩三唐津」「萩の七変化」といった萩焼の伝統的な強みをいったん放棄して、新しい表現手法を探っている窯元も確かにあるのだ。伝統に学びながらも、伝統から脱却していく・・・大屋窯の方向性は、これからの日本の伝統産業の職人が生き残る道を示しているようでもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.09.21 11:02:50
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