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カテゴリ:Essay
彼とは中学時代に山口県でクラスメートだった。彼のお母さんが私の父のお弟子さんだったという、ちょっとした縁もあった。高校も同じだったが、科が違ったのでクラスはずっと別だった。大学は私も彼も東京。私は上野に通い、彼は本郷だったから、地理的には近くで学んでいたはずだが、特段の交流はなかった。
卒業後、私が山口の実家でくすぶっていた頃、彼は一流企業に勤め、スイスで活躍していた。彼のお母さんが私の実家にクッキーを届けてくれたときに聞いた話だ。 その後のことはほとんど知らずにきた。私は再び東京に戻り、仕事が忙しくなった。新しい仕事上の交友関係も広がり、過去を振り返ることもなくなった…というより避けていた。 そんな時代がひと段落した頃から、中学・高校の仲間がときどき集う店ができた。大都会の片隅、グランドピアノが置いてあるこじんまりとした店。マスターの彼も、私と同じ中学、同じ高校の出身。だが、私はマスターの彼とは面識はなかった。 マスターの彼の店で開かれる同窓会では、クラスメートだった彼と会うこともあった。マスターの彼は、時折ピアノを弾く。最初に店に行ったときは、ベートーベンの月光の一節を少しだけ。「子どものころ、ちょっとやってたからね」――ちょっとやってただけで月光が弾けるとは到底思えない。背筋を伸ばした姿勢の良さ。そして打鍵の強さ。本格的な基礎訓練を受けた人のものだった。 驚いたのは十年ちょっとのち。店に行くと、またほんの少しだけマスターの彼がピアノを弾いてくれたのだが、音が格段に「まろやか」になっていた。熟成された音といってもいい。ピアノを替えたのかと思うぐらい。十年弾いてりゃうまくなるでしょ、などと言うのは簡単だが、それはある程度の年齢を超えてからでは、容易なことではない。音楽に関しては、その現実はさらにシビアだ。 楽器を弾くというのは、スポーツに似ていて、技術的なピークはかなり若い頃に来る。その時期をはるかに逸したあとになって、技術を向上させるなど、並大抵のことではない。そして、相変わらずの姿勢の良さ。どうやって腹筋・背筋を鍛えているのだろう――と思ったら、高校時代に打ち込んでいたバスケットの、シュート練習を今もほぼ週一回、公園で一人続けているらしい。 そして―― クラスメートだった彼が、病気になった。 胃がん。 手術、抗がん剤。それぞれの治療の先には、常に良いシナリオと悪いシナリオがあるが、彼の場合は、ことごとく悪いほうに流れていった。闘病が続く中、東京にいた彼は、九州に居を移した。その狭間の短い間、偶然、彼は私の家の近くに住んでいて、田舎の親類にもらった里芋が多すぎて、おすそ分けに持って行ったことがある。 里芋を玄関先で渡し、階段をおり、停めておいた自転車にまたがって帰り道をこぎ始めた私に、彼がふいに、「また、ゆっくり」と声をかけてくれた。私は振り返って、彼に軽く手をあげて応えた。彼がそんなに律儀に、こちらの帰路を見守ってくれてるとは思っていなかったから、驚いた。 「また」はあるだろうか? 正直に言ってしまうと、「ないかもしれない」と思った。 彼が九州に引っ越すことは決まっていた。戸口に立つ彼は元気そうだったが、がんというのは、いよいよの末期となるまで、案外元気でいられるものだ。彼はブログで自らの病状について詳しく綴っていて、「転移」「腹膜播種」の文字は、父をがんで失った経験のある私には…… 彼が九州に行ったあとも、私はマスターの店に行った。東京在住の同窓生たちに会うために。頻繁にではない。だからこそ、行くたびに思うのは、駅からの道、あまりに多くの店がなくなり、新しい店ができていること。一瞬、道を間違えてしまったかと思うほど。それでもしばらく行けば、見慣れた彼の店がある。 「ここは何年? 長いよね」――ひとつの店、ひとつの仕事。それをやり続ける困難さを知る人だけが、彼のことを褒める。 九州に行った彼の病状がいよいよ差し迫ってきた頃、マスターの彼が、どうやらCDデビューをするらしいという話を知った。マスターの彼はピアノも弾くが、自分で作詞・作曲もする。てっきり、シンガーソングライターとしてデビューするのかと思っていたら、そうではなかった。 彼はとっくに、適材適所の才能を自分の周囲に見つけ、関係を築いていたのだ。 マスターの彼もブログを書いている。CDデビューに向けて、また日々の仕事でエネルギッシュに動き回っている。病気の彼もブログを書き続けている。東洋的な諦念と、そうしたものに抗うべきとする西洋的な意志の向こうに、どうにもならない終焉が迫ってくる。 冬のある日、マスターの彼は、多忙を縫って、そして迷った末、九州の彼を見舞ったという。 彼が亡くなったと知らせがきたのは、それから1か月もたたないうちだった。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.02.02 20:59:40
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