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カテゴリ:Essay
文庫 銃・病原菌・鉄 下 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎 (草思社文庫) [ ジャレド・ダイアモンド ] WHOがパンデミックを宣言する直前(3/10)に日経新聞に出た記事に、「WHOは日本やシンガポールなどは封じ込めに成功しているとし、『勇気づけられている』と対策の成果を評価した」 というのがあり、個人的にちょっと驚いた、というか気になった。 発言者はライアン氏だと書いてあるが、「封じ込めに成功している」と彼が言ったとしたら、疾病あるいはウィルスの「封じ込め」を英語でどう表現したのだろうか、という点と、「封じ込め成功」はちょっと評価しすぎではないだろうか? という個人的な印象だ。 で、つらつらツイッターを見ていたら、センセーショナルな「告発」を見つけた。左派系の政治ブロガーで本も出している「きっこ」というハンドルネームの人のツイートだ。 きっこ氏が自身で検証したものではなく、リツイートという形だが、元のCAN氏のツイートにはラインマーカーを引いた英文があり、「これは酷い虚偽で、正確には」云々とある。 が、一目でコレ、「ちょっと待て!」と思った。 引用元をしっかり示す意図で、発言者の肩書を示す部分をきちんと載せているのは立派なのだが、記事にあるマイク・ライアン氏のコメントじゃない。おもいっきり、Director-Generalとあるから、(テドロス)事務局長のオープニングでの発言だ。 この日のWHOのDaily News Briefingは最初に書面をテドロス事務局長が読み上げ、それから質疑応答に入っている。その時にライアン氏が頻繁に答えていて、それは原稿を用意した発言ではない。 これだけで「酷い虚偽」と書いてる方が酷い虚偽だと分かる。 では、記事にあたるライアン氏の発言はどこだろうか? https://www.youtube.com/watch?v=aJqb44WD7h4 この動画を聞いていくと、1:48:35あたりに、記事のもとになったと思われる発言がある。そのことに気づいた人もいて、きっこ氏がリツイートしたCAN氏の元ツイートに指摘が入っている。T.Katsumiという人が "to be quite frank…”からがこの記事のもとになったと指摘しているのだが、「捏造報道であることは論を待たない」と、ものすごくアタマよさそうな言い方で断定している。 が、またもや一目でコレ、「ちょっと待て!」と言いたくなった。 この2人は、ライアン氏が明確に言っている”turning a corner"のaをないことにして、「折り返し地点」→「転換点」だと内輪で結論づけ、日経記事は「やっぱり捏造だよね、捏造」という、自分たちが「そうしたい」結果に持っていっている。 ちょっと待て! なんでturning a corner が「転換点」よ? (marking) a turning pointなら転換点だけど。 turning a cornerはただのイデオムだ。 辞書でcornerを引けば、turn the cornerのほうが、より明確なイデオム(病気などの峠を越す)であることが分かると思うが、turn a cornerでも、病気の話をしているなら、やはり「峠を越す」とか「危機を脱する」の意味になる。 それを「折り返し地点」と思いっきり誤訳したうえ、さらに飛躍した誤訳の「転換点」のが、より適した訳語だと決めつけて、結果、ライアン氏の発言とはかけ離れた内容に「編集」してしまっている。これじゃ誤訳の三段跳びだ。 ヤレヤレ… どっちが捏造ですか、まったく。 さらにこの2人は、日経の記事が「ここだけ」を抜き出して書いたものだと思い込んでいるようだが、ライアン氏の発言には続きがあり、いろいろ話したあとに女性にバトンタッチする直前の発言を聞くと、 (ウィルスを多くの国に拡散させない)というチャンスの窓は閉じられつつあり、パンデミックという妖怪がたちのぼってきているが、同時に別のチャンスの窓が開きつつある(かもしれない)。 で、その開きつつあるという窓が何かというと、「アジアのいくつかの国のデータと経験」で「それらの国では、明らかな(数値の)きざしがある」。どんなきざしかというと「できうる限りの要素やあらゆる戦術を使った、社会全体にわたるシステマティックな政府主導の施策を駆使することで、この病気を好転させることができると思われる(seems to be able to turn this disease around)」というきざしだ。 Mizumizuが上に書いた日本語は、英語の構文に沿った直訳だが、これでは意味は分かっても日本語の新聞記事にはそのままは使えない。そこでもっと日本語らしく、端的に記者がまとめたということだ。 「勇気づけられている」は「私に大いなる希望を与えてくれる」の部分の意訳だろう。後者のように書けば正確な翻訳だが、これじゃ直訳すぎて日本語としては変。「これには勇気づけられた」と言う人はいても、「これは私に大いなる希望を与えてくれました」なんて言う人はそうはいない。だが、言わんとすることに、この2つはそうは差がない。 「シンガポールや日本など」としたのも、「など」が入っているので別に間違いではない。限られた新聞記事の中では、あまり例示の羅列はしないほうが文字数を抑えられる。 ライアン氏の発言は原稿を読んでいるものではなく、質問に答えているものなので、つらつら長く、文字にそのまま起こすと分かりにくいが、聞いてる分には、まあまあ素直に頭に入ってくる。「対策の成果」もto turn this disease aroundまでの流れで聞くと、確かに評価している。そう直接的な言い方をしていないだけだ。 しかも、専門性が高い慎重な言い方をしてるので、普通の人には分かりにくいかもしれない。そのつらつらした専門性の高い発言を、翻訳調ではなく、自然な日本語で端的にまとめているという点で、この日経の記事を書いた人は「手練れ」だな、というのがMizumizuの感想だ。 最近はトランスクリプションはある程度自動でやってくれるが、この会見があってから日経の記事が出るまでの時間は短く、その短い時間の中でこれだけきれいな日本語にできるというのは、「技」だと思う。 あとは「封じ込めに成功」という言葉の「印象」の問題。あくまで個人的には、だが、少し書きすぎているかな、というのはMizumizuも思うが、それは印象論の域を出ない。「危機を脱している」と言っているのだから、それを「封じ込めに成功」と書いても、少し筆が走りすぎの感は印象としてはあるが、飛躍した誤訳ではない。 明らかな誤訳をしてるのは、イデオム知らない(あるいは似たようなイデオムをごっちゃにしてる)告発者のほうだ。 そもそも、ライアン氏の発言なのに、テドロス氏の原稿を持ってきて、マーカーまで引っ張り、「酷い虚偽」だと決めつけてツイート。さらに、それをリツイートして、「日本経済新聞が安倍政権にゴマスリするために捏造記事を報じました。皆さん、日経新聞のデマに騙されないように」とまで煽り、さらにそれが何百もリツイートされて拡散していくって何なんだろうね。 「安倍政権にゴマするために」とまで書いてしまうのが、匿名の個人の発言の自由が、日本では相当の程度まで守られていることに胡坐をかいた悪行だろう。 そして、口汚く罵れば罵るほど、キャッチーで人目をひき、メッセージは単純で分かりやすくなり、人々の負の感情と結びついて、それを増幅させていく。権力の中枢である安倍政権は「まったき悪」で、それに立ち向かう名もない、しかし勇気ある個人、という、ネットならではの安上がりなヒロイズムが醸成され、その界隈に特定の人ばかりが集まってくる。そういう人から見れば、自分たちがこんなに分かってることに盲目な多くの人々(それはつまり安倍政権を長期政権にした多数の日本人だ)は、騙されている可哀そうな人たちで、自分たちが彼らを啓蒙しなければ、と躍起になる。 新聞記者も間違いはあるし、それがデマのもとになってしまうことも多々。だが、この日経の記事を検証してみると、書き手のレベルは高い。ネット時代になり、素人の書き手もプロの新聞記者もフラットな世界に投げ出されたことからくる、いわれなき中傷だ。もちろん素人がプロの間違いに気づくことも多々あるが、この件に関しては、日経の記者に同情する。 で、蛇足だが、ライアン氏の発言、"window of opportunity"(チャンスの窓)というのが好きだ。この比喩の中にある知性と少しのロマンチシズムがこちらの琴線に触れてくる。Mizumizuならこれは敢えて日本語では「希望の窓」と訳したい。少し情緒的にはなるが、「希望の窓は閉ざされつつあり、パンデミックという亡霊が立ち上ってきてはいますが、同時に別の希望の窓も開きつつあります(その希望の窓が開いた先にあるのは、中国、シンガポール、韓国、日本といったアジアの国々の経験とデータ)」というふうに。 そしたら、Mizumizuに日ごろ反感を持っていて、何かというと揚げ足取りたい人が、「opportunityは希望じゃない、とんでもない捏造だ!」などと言い出すというわけだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.03.13 23:42:24
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