|
カテゴリ:手塚治虫
今度はこのような記事が出た。 手塚治虫『新選組』なぜドラマ化? 萩尾望都も影響を受けた、知られざる“時代劇短編”の内容 秋田書店の『手塚治虫全史』の解説によると、『新選組』は手塚が正統派の時代劇を意図して描いた作品なのだという。連載が始まった1963年は、新選組の前身である浪士組結成からちょうど100年目であったが、当時は今のような新選組の人気も知名度はなかった。そのせいか、雑誌では思ったような人気を得ることができず、打ち切りに追い込まれた不遇の作品であったとされる。 だが、漫画好きの間では当時から評価が高かったようだ。漫画界の巨匠・萩尾望都も高校2年生の時にお年玉で『新選組』の単行本を買って深い感銘を受け、漫画家を志すきっかけになったと語っている。2022年に山崎潤子が手塚治虫公式サイト「虫ん坊」で行ったインタビューで、萩尾が当時の衝撃を語っている。いくつか印象的なコメントを引用しておこう。 「そのときの自分の心情に何かこう、ストーリーがフィットしたのでしょうね。ものすごくのめり込んでしまって、1週間くらいずっーと、この漫画のことを考えていた」 「進路やら何やらで、悩んでいた(注略)そんなときに、『新選組』に出会って、頭から離れなくなった。そして『こんなにもひとつの物語が人にショックを与えるものなのか』と感動しました」 「人間には『やられたことをやり返す』という癖があるんです。だから、私も誰かにショックを与えたいと思ったわけです(笑)」 萩尾望都はMizumizuが最も偉大だと思う少女漫画家だ。もちろん、ほかにも偉大な少女漫画家はいる(それについてはまた後日)。だが、萩尾望都は、その抒情性、幻想性、哲学性で少女漫画を芸術の域にまで高めた第一人者。独特のストーリー展開と作画の美麗さは、他者の追随を許さない。いつしか彼女が「少女漫画の神様」と称えられるようになったというのは、Mizumizuにとってはわが意を得たりといったところなのだ。 萩尾望都が『新選組』を読んで漫画家を志したという話をMizumizuが知ったのは、浦沢直樹が自作『PLUTO』のアニメ配信にあわせて手塚治虫の天才ぶりについて萩尾望都らのゲストとともに語っている番組を見てのことで、ごく最近の出来事だ。 萩尾望都は番組中、「(手塚先生)のセリフでこちらの妄想がぐるぐる広がっていく。でも、そのセリフって実はたった2行なんですよね」といったような発言をし、その発言にかぶせるように映ったのは『新選組』の一コマ。まさに2行だけのセリフだった。 この発言にMizumizuは、文字どおり「ショック」を受けた。 というのは、ストーリーが追うのが面白くて読んでいた漫画の、たった2行のセリフが、例えは悪いが「原爆の熱線」のように強烈に心に焼き付き、時間がたってストーリーを忘れても、そのセリフだけがいつまでも消えずに、やがてもとの作品の展開を離れた、妄想の別のストーリーを自分の中で作ってしまうという経験を、たった2度だけしたことがあるのだ。 それが、手塚治虫と萩尾望都の漫画。 もう両作品とも題名すら覚えていないが、2つとも読み切りだった(と思う)。 手塚作品を読んだのはラーメン屋(苦笑)。大人向けのコミック雑誌で、今なら、いわゆる「手塚ノワール」に分類されるだろう救いのない結末だった(と思う)。おそらくどーしようもない悪女だった(と思う)女主人公が、風にさらされながら、つぶやく。 「寒いわ。吹き飛ばされそう」 そこで物語は唐突に終わっていた。 萩尾作品のほうは、妄想でストーリーを違って解釈している可能性は高いが、いわゆる「サイコパス」の少女の罪と罰を幻想的に描いた作品だった(と思う)。もちろんサイコパスなんて言葉が世間一般に知られるより、ずっとずっと前のことだ。 「罪ってなに? 私だけが悪いんじゃないわ」 このたった2行のセリフ。いや、実は、本当はもうちょっと違う言い回しだったかもれない。 自らの悪行をそうと認識できない少女のたどる、幸福とはほど遠い人生の結末。身勝手な主人公なのだから、ある意味勧善懲悪的なカタルシスを得ることも可能なはず。あるいは、「何言ってんだよ、コイツ」と単純に読み捨て、そのまま忘れる人も多いだろう短編。 だが、Mizumizuがこの2作品の「たった2行のセリフ」から受け取ったものは、そのどちらでもなかった。作品に忍ばせてある世の中の不条理に視点を向けて考えたとき、認めたくない共感が自分の中に広がっているのに気づく。 そう、誰しもが自分の中に強烈な悪をもっている。そして、生きている限り逃れられない「孤独」というものが、この世にはあることに気づく。それが人間ではないか。 両作品の両主人公の強烈な「孤独」が、このたった2行のセリフとなって、こちらの心に突き刺さったのだ。萩尾作品のこのセリフのあるページの絵はうっすらと記憶によみがえることがあって、Mizumizuはごく稀にだが、唐突に、「罪って何? 私だけが悪いんじゃないわ」とつぶやきたくなるときがある。おそらくそれは、何らかの妄想の世界に入っているときなのだろう。 萩尾望都が手塚作品から受けた自らの感動を、「ショック」と表現しているのも秀逸だと思った。 手塚作品には単なる「感動」という言葉では表現しきれないものがあるのだ。浦沢直樹は『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を読んで、「この得体の知れない切なさは何だろうと」と思ったことが『PLUTO』を描くきっかになったと話していた。 手塚治虫が出たおかげで、多くの才能が漫画界に集まった。彼らは漫画を描くだけでなく、折に触れて多くのことを語り出した。手塚治虫の名声を高めたのは、こうした後進の天才たちの証言があったからという側面も大きい。そこは見逃してはいけない点だ。 手塚作品を読んで、妄想が広がる――それは、分野の違うクリエーターにとっては、自分の手で「手塚作品を舞台化したい」「手塚作品をドラマ化したい」「手塚作品を実写映画にしたい」「手塚作品をアニメ化したい」という野望につながるのかもしれない。 …その多くは、残念ながら失敗している、のだが。 上記の手塚・萩尾2作品のタイトルをご存知の方、ぜひご教示ください。メールアドレスは mizumizu4329あっとまーく(変換してください)gmail.com 2024年2月4日追記: 読者よりメールいただき、くだんの手塚作品は『人間昆虫記』ではないかと。 単行本で確認したところ、確かに同作品のラストシーンでしたが、セリフは記憶と若干異なっており 「私…さみしいわ。…ふきとばされそう」でした。 コマの構図はだいぶ記憶とは違い、雑誌で見た時は、背景はなく、女主人の上半身のアップで体を抱くようにしながら風に髪をなびかせていた…と思っていたのが、単行本では、かなり写実的なギリシア神殿のコリント式円柱の間にたたずむ主人公の全身を俯瞰でとらえたシーンになっていました。 記憶違いなのか、単行本化する時に描き替えたのかは、分からず。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.02.04 16:42:23
[手塚治虫] カテゴリの最新記事
|