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カテゴリ:手塚治虫
「手塚治虫の奇跡は、映画やショービジネスの世界ではなく、漫画という繊細で奥深い大衆娯楽によって生み出された。この飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進し続ける風変りな男のおかげで、漫画ははるか僻地の質素な家に住む人々をも夢見心地にさせた」 これはローラン・プティの『ヌレエフとの密なる時』(新倉真由美訳)をパクって、『新宝島』から1950年代の「どこでも手塚(どの雑誌を開いても手塚治虫の作品が巻頭カラーを飾っているという意味)」時代をイメージして作った文章だ。変更したのは赤文字の部分。ヌレエフ→手塚治虫、バレエ→漫画、芸術→大衆娯楽に変えただけ。Mizumizuは個人的には手塚漫画は芸術だと思っているが、本人がそう言われるのを嫌ったので、あえて忖度した。 【中古】 ヌレエフとの密なる時 ある分野の人気のすそ野を爆発的に広げる革命児には似た部分が多い。バレエではヌレエフが手塚のポジションにいると思う。ヌレエフ以前にも偉大なバレエダンサーはいたし、バレエを好んで観る人たちも確かにいた。 だが、ヌレエフの登場によって、それまである程度固まっていて、閉鎖的だった「バレエファン」は一挙に様変わりする。 手塚治虫以前にも、もちろん売れっ子の漫画家はいた。だが、手塚の「映画的手法」によって、日本各地の少年少女が文字通り「夢見心地」になったのだ。 矢口高雄の『ボクの手塚治虫』は、「はるか僻地」で質素な生活をしていた少年が、いかに手塚漫画に魅了され行動したかを生き生きと描いている。手塚作品を読みたいがために、矢口少年は、雪深い山道を何キロも歩いて町の本屋に行く。手塚作品を買いたいがためにきついアルバイトをして、本屋の主人に「このカネはどうした?」などと疑われ、憤慨して自分がどうやってそのお金を作ったかを説明し、そこから本屋の信頼を得ている。 ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ] このファンの熱情は、ヌレエフの公演を見ようと遠くからでも駆けつける新しいバレエファンの心理とダブる。 そして、もう1つ、大いなる共通点。 再び『ヌレエフとの密なる時』から。今度は改変なして。 「驚いたことに、彼の出演料は非常な人気を博していた他の出し物に比べ比較的少なかった。そう、それは本当にささやかなものだった。 『僕にとってそれはとても良いことだと思う。だってわかっていると思うけれど、僕は来年も踊っていたいから』 それは理にかなっていた。天文学的な出演料を要求し、毎年踊る機会の減っているダンサーたちにとってなんという教訓だろう。この時期ヌレエフは1月から12月まで約250回の公演を行っていた。それはおそらく多すぎた」 手塚治虫が原稿料にこだわらなかった、むしろマネージャーに「安くしろ」と言っていた話はよく知られている。ちばてつやの●分の1だったとか、アニメージュの編集長だった鈴木敏夫(現在はスタジオジブリ代表)に「僕の作品は単行本で売れるから、原稿料はいくらでもいい」と言ったとか。 単行本で稼ぐから、というのも本当だろうけれど、実際のところ、長い間漫画界の第一線で活躍してきたこの大天才は、原稿料を上げたのちに人気が落ちて、あっけなく切られてしまう(一時的な)流行漫画家の姿をきっと見ていたのだろうと思う。 若いころの手塚は、「この商売の人気は2年ぐらい」と言っていたし、売れなくなったら医者に戻ろうとしていた感もある。そのための道も残していた。 たとえ人気がなくなっても、原稿料が安ければ頼むほうは頼みやすい。いったん原稿料を上げて、人気がなくなったら「下げますから仕事ヨロシク」と言っても、相手は依頼しようとはなかなか思わないものだ。 だったら、最初からお手頃な値段設定にしておいたほうが、競争力を保てる。一種、企業家のような発想で入れ替わりの激しい漫画業界を40年以上も生き抜いたのだ。 ヌレエフは非常に公演数の多いダンサーだった。手塚治虫もすごい量産漫画家だった。そしてその対価に大きなものは要求しなかった。「来年も踊っていたいから」というヌレエフの言葉は、「来年も描いていたいから」とすれば、そのまま手塚治虫の言葉だ。 むろん、あちこちでスキャンダルを引き起こす奔放なバレエダンサーとそういった問題とは無縁の博覧強記の漫画家の生き方は大いに異なっている。だが、「死の病(当時)」がその体を蝕んでも、なんとか仕事を続けようとしたその執念は似ている。 ヌレエフはダンサーとしてキャリアをスタートさせたのち、振付師としても名声を得た。晩年にはクラシックバレエのレパートリーを演奏するオケの指揮も行い、好評を得ていた。 亡くなる3か月前、ヌレエフはローラン・プティの公演に指揮者として参加したいと自分から申し出ている。 オケの指揮をするヌレエフ、なんて素敵なアイディアだろう!――プティは喜んで了承する。 「なるたけ早く仕事に着手して暗譜したいから、急いで楽譜を送って」 だが、二人の構想が実現することはない。 亡くなる数週間前まで、ヌレエフは創作作品で自らも踊る意欲を持ち続けていた。当然と言えば当然だが、現実に彼にできたのは、楽屋で横になっていることだけだった。それでもヌレエフは楽屋にいて、亡くなる数日前になってようやく病院に戻った。 手塚治虫も最晩年まで多くの仕事を抱え、新しい分野の構想や依頼もあった。病院のベッドで、寝かせようとしても必死になって起き上がろうとしたという。 彼が亡くなった時、ニュースで速報が流れた。Mizumizuはその瞬間、たまたまテレビを見ていた。「60歳の生涯を終えた」というアナウンサーの言葉に、「えっ? うそ。違うでしょ」と思った。熱心な読者ではなかったのに、ちゃんと年齢のことが頭にあったのは、生年月日による性格占いなどの対象に手塚治虫がよくなっていたからだ。 みんな手塚フィクションにいっぱい食わされていた。したり顔で手塚治虫がもって生まれた性格や運勢などを断定していた占い師には、笑ってしまう。 ゲーテを想起させるような「手塚治虫最期の言葉」を知って感動するのは、もっと後のこと。 「頼むから仕事をさせてくれ」――この最後とされるセリフが、ある種の手塚フィクションでも、あるいは本当の本当でも、それはどちらでもいい。手塚もゲーテ同様、歴史上の人物として語り継がれることになるのだから。 ゲーテの臨終の言葉「もっと光を!」については、以下のサイトが詳しい。 https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=277 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.02 23:35:40
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