|
カテゴリ:手塚治虫
基本、SF好きでは「ない」Mizumizu。今日本ではファンタジーは流行るが、SFは廃れた感がある。それでも、NHKで藤子・F・不二雄の短編SF(少し不思議な物語)がドラマ化されたりと、また徐々に人気が復活する「かも」しれない。 で、手塚治虫の『ドオベルマン』だ。 これは1970年に「SFマガジン」に発表されたものだという。だが、Mizumizuが読んだのは最近。こちらの電子書籍にて、だ。 https://tezukaosamu.net/jp/manga/302.html 一読しての感想は、「?????」。 なんじゃ、コレ。意味分からない。 説明的なわりにはラストシーンが何を意味しているのか、いまいちはっきりしない。多分、宇宙人の侵略を暗示しているのだろうけど、それにしては曖昧だ。 「SFマガジン」に描いたということは、コアなSFマニア向けだから、基本SFに疎いMizumizuにはハードルが高かったよう。ドオベルマンの遺作の絵の構図とラストシーンの星空の関連をつかみたくて、それらが絵か描かれている数コマは穴のあくほど見たのだが、直接的な関連は示されておらず、やっぱり分からないままだった。 逆に遺作に描かれた複数の〇の位置が、同じ絵なのにコマによってズレてることを発見してしまった。ま、手描きですからなぁ、忙しい手塚治虫なので、ササッと描いたんでしょう、たぶん(だが、後から考えると、同じ絵なのに、〇の位置が見る時間によってズレて見えるのは、「あえて」そうしたのかもしれないとも思った)。 ただ、何となく忘れがたい作品なのだ。ラストシーンの星いっぱいの夜空の冷たさが妙に心から離れない。 小品だし、昔の作品だし、覚えている人もそうはいないだろう――と思っていたら、実は、いた。 2024年6月5日のエントリーで紹介した松浦晋也氏のエッセイでも触れられている。 https://news.yahoo.co.jp/articles/dc55cf24410ecb08952a1ed9092f4aa2b3d34e4d?page=5 (ここから引用)手塚治虫にも「ドオベルマン」(1970年)という、尋常ならざる速度で絵を描く画家が登場する短編がある。「サンダーマスク」同様に手塚本人が語り手だ。 手塚はある日、コニー・ドオベルマンという外国人の貧乏画家と知り合う。彼は奇妙な絵をものすごい速度で大量に描いていた。手塚は、その奇妙でデタラメな絵画にある規則性があることに気が付く。 ラストで手塚は夜空を見上げ、まさに世界が今までとは全く変わる瞬間に立ち会うことになる。手塚治虫漫画全集の『SFファンシーフリー』に収録されているので、気になる方はどうぞ。(ここまで引用) これを読んで、「あ、やっぱりかー」と解答を教えてもらった気分だ。「まさに世界が今までとは全く変わる瞬間に立ち会う」というのは、松浦氏の解釈だが、素晴らしい。こういうふうに読める読者がいるのが、実は手塚マンガの凄いところなのだ。 描いてあるのは、冷たい星の輝く夜空だけ。だが、その前の〇の並んだ絵から想像するに、隊をなしてやってくる宇宙船がまさに、地球に到達した瞬間を手塚が地上から見てしまった、ということなのだ。その後、何が起こるのか? それを考えたうえでで、「世界が今までとは全く変わる瞬間」と解釈してみせる優れた読者。これはまさしく、作家と読者による共同創作だ。 「どこからそれらを見るか」の視点の違いがあるから、絵の構図と夜空に関連がないのは当然。松浦氏の文章を読んで、スルスルっと謎が解けた。そういえば、『サンダーマスク』の侵略者も、宇宙空間から見ると〇で描かれていた。ナルホド。 答えが分かると、このラストシーン、ジワジワと怖い。夜空のぞっとするような冷たさが暗示する「その後」の物語を、読者が自分で作っていけるようになっている。 で、ググッてみると、ブログやX(旧ツイッター)この『ドオベルマン』について書いている人、案外多い。 説明的なようでいて、「謎」が散りばめられていて、明確な答えが書かれていないから、想像するしかない。 たとえは、こちら↓ http://gom47.blog97.fc2.com/blog-entry-104.html この方の疑問に、今はMizumizuはMizumizuなりの解釈で答えられる。1つは物語上の意味ある設定(ある役割をもった機器)。もう1つは、手塚治虫が時々やるという、あるモノを連想させる絵的な「お遊び」。 あえて答えは書かないことにしよう。じっくり読めば、多分、Mizumizuと同じ答えにたどりつくはず。「お遊び」については、『手塚番 ~神様の伴走者~』にヒントがある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.14 11:10:09
[手塚治虫] カテゴリの最新記事
|