カテゴリ:日常生活
友達の日記からネタ拝借です。バークレーに住み始めて、かれこれもう4年半。その間に住んだ家、6箇所。やたらと引っ越ししてますね。。。その住居とルームメイトの変遷を振り返ってみたいと思います。
まず最初は語学学校(ELP)で二ヶ月間、初めてバークレーに来たときでした。このときは語学学校で指定されていたドミトリー・Hillside Residence Hallでした。僕の部屋は2人部屋の相部屋で、ルームメイトはイタリアで育った17歳の韓国人少年でした。すごくいい育てられ方をしていたみたいで、しっかりしているのに奢るところがなく素直な少年で、兄のように慕ってくれました。さらにブレイクダンスを始めたばかりで、僕がブレイクをやっていることを知って大喜び。毎日夕食後にダイニングで教えてあげました。残念ながら今はもう音信不通になってしまったけど、僕にとってはいい想い出だし、彼にとってもいい想い出として残っていると思います。 ドミトリーの中は夏の間は語学学校の留学生で埋め尽くされており、ほとんどが台湾人か韓国人。数割がヨーロッパ系。日本人が数名。人種によってくっきりと別れて固まっててすごいなーって思った。ヨーロッパ系の人達はルームメイトとして割り当てられても、ほとんどアジア系の人達とは話すことすらないのね。それでも話す機会があったら、あるドイツ人の女の子は、ルームメイトの韓国人の子を「何、あのポケモンみたいな顔。何喋ってるかわかんないし、喋る気もしない」みたいな言い草でした。お前、そんなにエラいんか?と思ってしまった。その後の在米生活の中でもたくさんのヨーロッパ系留学生に会いましたが、このドミトリーにいるときに受けたような不快感を感じることはほとんどありませんでした。語学学校・大量のアジア人という環境から、こんな閉鎖的になったのか、それともたまたまここに居たヨーロッパ人がオープンマインドじゃなかったのか、どっちにしても、後にも先にもこんなヨーロッパ人の印象を受けたことはなく、むしろ好印象を受けることのほうが多かったんで、僕は親欧派ですけど。 ドミトリーにいるときは、クラスメイトの大半が台湾人だったため、主にドミトリー暮らしの台湾人とつるんでました。でも淋しいことに、みんなでいるときは台湾語で話し始めるし、彼らが台湾に帰ってからは、彼らは彼ら同士で連絡を取り合っていたらしいんだけどそれには組み入られず、たまに複数宛てのメールが中国語で送られてくるだけでした。夏の語学学校なんて、そんなもんなんですよね。でも当時は僕も来たばかりで友達が少なかった分、こういう仕打ちが結構淋しかったりしましたね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[日常生活] カテゴリの最新記事
|
|