カテゴリ:占星術に関すること。
ゆうべ、ある著名な方が、ある本の中で、「これから、易や占星術は、当たらなくなるだろう。」と、すこし語気荒い感じで、断言されているのを見まして、はたしてほんとうに、そういうことなのだろうか?と思った次第です。
占星術をひとつの道具と考えた時に、占星術とははたして、当てるためだけの道具なのかどうか?。 それをどのように使って行くのか?という、道具の使い方は、わたしたちを映しだす鏡として、つねに問われているということなのではないか?そのように、思いました。 そんなことを考えて、ゆうべ晩酌をしながらぼおっとしていたら、ふっと、ずっと前に出会ったプラトンの言葉が浮かんできました。それで確か、それを見つけた時に、自分のブログにアップしておいたな、と思い、さがしてみました。 それはこちらです。http://plaza.rakuten.co.jp/mokuseiki/diary/201004280000/ ゆうべは、上記のその本をひも解く前に、『近代文明はなぜ限界なのか 人類を救う哲学』稲盛和夫×梅原猛 PHP文庫 を、読み終わりました。 本の終わりの頃には、「サムシング・グレート」という、概念が紹介されています。「何物かは知らないけれど、偉大なもの。」 これは、スピ系の言葉かと思っていましたが、「筑波大学の村上和雄氏が提唱された概念ですが、」と書かれているので、「そうだったのか。」と思いました。 映画『憑き神』の原作者は、たしか浅田次郎だったように記憶していますが、そこには、「神は永遠、人は刹那。神は刹那に嫉妬する。」というような言葉がでてきました。 つまり、「神は永遠不変で、良いなぁ~と思うかもしれないけど、そうじゃないんだよ。刹那は刹那で、すばらしいことなんだよ。」という、描かれ方がされていたことが、印象的な映画でした。 十牛図の第七図、つまりある意味「土星内社会」と、第八図、つまり「海王星的世界」は、その境界線で明確に分離されているところもあるけれど、その境界を越えて、より良く八図を七図に取り込もうとされている学者や小説家の方も、居られるのだなぁと、あらためて気がついたりも、しました。 プラトンの言っていることを、上記のふたつに置き換えて、表現してみるとしたら、「たとえば占星術というものは、サムシング・グレートと人をつなぐ道具として、存在しているよ。」とか、「占星術は、永遠不変の存在と、刹那な人間存在の、架け橋となる可能性を持っているよ。」ということも、できるのではないかと、思った次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.01.15 19:10:07
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