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今回の旅行で稚内に来たのは「さいはてだから」っていう単純な理由もありますが、「樺太が近いから」っていうのもあります。
(影が邪魔ですが、稚内の宗谷岬とサハリンのクリリオン岬とは43kmしか離れていないそうです) 我が家のおじいちゃんは樺太の生まれです。 社会人野球にちょっと関係ある固有名詞を出すと、おじいちゃんのお父さんが王子製紙でお仕事をしていて、王子製紙の工場があった大泊という港街に住んでいたそうです。 (その王子製紙の工場は戦後もソ連に接収されて使われ続けたとか(今でも稼働中?)) (王子製紙に野球部があったか知りませんが、樺太のチームも都市対抗予選には参加していて、「北海道樺太予選」と呼ばれていたそうです) 当時の稚内は大泊との間に連絡船が運行されるなど、地理的にも交通的にも樺太に最も近い街。今も稚内港の国際線フェリーターミナルからは大泊(コルサコフ)港までフェリーが出てます。 稚内市内の高台にある公園からは、晴れていれば樺太の島影が見えるそうです。私たちも行ってみたところ、実際に島の輪郭がはっきり見えました! 結構感動。 (「大沼」とか「島影」とか書いてあってニヤニヤしてしまいましたが) 日本では8月15日が終戦の日とされていますが、66年前の樺太では8月15日以降もソ連軍からの攻撃が続いていたそうです。 「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の真岡郵便電信局事件は8月20日。 大泊港からの民間人引き揚げ船が撃沈された三船殉難事件は8月22日。 おじいちゃんも街が占領される数日前に大泊港からの引き揚げ船で北海道に逃げて来たそうですから、もしも乗る船が違っていたら私も存在していなかったかも。 (稚内公園にある「九人の乙女の像」は真岡での事件を慰霊するもの) 樺太も今では普通に行けるそうで(「地球の歩き方」も出てます)、おじいちゃんが生きているうちに一度ふるさとに連れて行ってあげよう、みたいな話題が家族で出たことがありました。しかし、当の本人が「寒いからいいよ」とか「もう何も残ってないから行きたくない」とか言うのでお流れ。 当時は子供だったからあまり覚えてないのか、引き揚げのときの様子なども聞いてもほとんど教えてくれません。 稚内公園にある「氷雪の門」。「女性が手のひらを見せ天を仰ぐ姿は、樺太も家族も全て失った悲しみを表している」とのこと。 おじいちゃん一家も父親を失い、引き揚げるときは土地も家財道具も全て捨てざるを得なかったそうで、もう当時のことは思い出したくもないのかも知れません。 こういう「歴史の生き証人」には、私たちみたいな「戦争を知らない世代」にいろいろ語って欲しいとも思うのですけども、そう簡単なことではないみたいです。 (引き揚げて来てからの貧乏生活のほうは私が子供の頃に良く聞かされましたけどね) そんなわけで、一度は来てみたかった稚内。お天気が良くてよかった。野球の話はほとんどなかったな~。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011年08月21日 23時16分35秒
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