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カテゴリ:ひとりごと。
友人の日記を読んで気がついた。
最近考えていなかったけど、私って、やっぱり「演じて」いるんだと。 彼女は、「マイペース」を出すのを我慢していたのに、あるとき出てしまったそうだ。 私は、最近「マイペース」なつもりだ。 でも、ふと気がついた。 「マイペース」なのは、一部の人の前だけ。 家族か彼氏だけ。 ひとは私をマイペースというけれど、私のマイペースはそんなもんじゃない。 多分。 多分、というのは、わからないから。 母親は、私はマイペースで我が強いと言う。 母の前ではそうかもしれない。 その性格はあるけれど、他人の前では、極端に圧縮される。 自分でリミッターをかけているのだ。 リミッターをかける癖には気付いていた。 でも、それが自然なことになってしまって、今ではかけていることも忘れるくらい。 協調・同調・融和。 周りのためなら、私は自分を演じる。 期待された自分像を。 本当は、誰も期待なんかしていないのにね。 ひとが作り上げた「私」というイメージから、はみ出ないようにしている。 そう。まるで、作られた「私」という名の役を演じるように。 演劇部時代から、この癖が出てきた。 大学でもっと強くなった。 社会人になって更に。 気がついたら、本当の自分を見失っていた。 本当の私って、どんなコだった? どういう考え方をしていた? どういう行動をしていた? 今の自分が嫌なわけではない。 アイデンティティクライシスを経て、自分なりに作ってきた自分でもあるから。 こんなに自我が強いのに、「演じている」なんて、と思う人もいるかもしれない。 でも、今の私が演じられている私なのは確か。 ひとは誰しも演者なのかも知れない。 そうでなければ、きっと世の中を生きていくことはできない。 でも、そんな人たちも、息を吐く場所はあるはず。 そこで、人には見せない表情を見せたりするのだろう。 私にだって、一部にしか見せない顔はある。 でも、それは、「私」? 自己の喪失。 私が私たる所以は何なのか。 もう不可能かもしれないけれど、演者の仮面を取った私を見たい。 自分は自分以外の何者でもないのだけれど、不安になるのだ。 演じすぎて、本当の自分に戻れない。 しかし、はたして本当の自分は、今の自分のように、愛されていられるのだろうか。 そうでないならば、演じていることすら忘れかけている今、 演じたままの私でいいのかもしれない。 自分が本当の自分でないのではないかいう不安に突然さいなまれた。 でも、自分が好きな自分でいることのほうが、何が本当かよりも重要かもしれない。 私を愛してくれる人たちがいる今の自分を、大切にしてあげよう。 演じるなら、人生という幕が下りるまで。 それは、譲れない。 今のままの私でいいのだ。 演じることにストレスはない。 違和感もない。 きっと、私はこのまま演れる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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