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テーマ:日本について・・・☆(7)
カテゴリ:思う事・・・☆
昨日の朝のニュース番組で小泉さんの涙を見た。
日系ブラジル人の歓迎に感極まり会見途中の涙。 「日系人社会の中には日本がある」と言い(寝惚けた頭での記憶なのでちょっと正確な言葉はわかりませんが・ニュアンスはこんな感じでした。) 遠く離れた日本を思いながら苦労してきた日本人、日系人にねぎらいの言葉を述べていました。 ブラジルへ移民した方々の苦労を思うと泣けてきた。 ブラジルには最大の日系人社会があるという。 ちょっと興味を持ったので・どういった背景でブラジルに渡り・またどう歩んできたのか・簡単にですが調べてみました★ ブラジルへの大人数での最初の移民は1908年。 ブラジル政府により補助金を受け、「笠戸丸」という日露戦争で活躍したロシアの病院船を改装した船により移民791人がサントス港第14埠頭に到着しました。 1908年以前にも多少の移民は存在しましたが・笠戸丸から一気に増えたそうです。 その背景には1888年の黒人奴隷廃止後、イタリア移民をはじめヨーロッパからの移民がいましたが・移民にもかかわらず奴隷と同じような扱いを受けた事で・ヨーロッパからの移民を停止されたことによりコーヒー農場主が労働力不足に悩んだ事、 日本では地租改正(全国の地価を改め地価の2.5%を納税する義務)に着手し・それにより農地を手離さなくてはならなかった農民等が失業した事により、アメリカに移民を送っていたが・カリフォルニアでの排日運動の高まりによりアメリカに入りづらくなった事等があげられる。 太平洋戦争の始まった1941年までの33年間にブラジルに渡った日本人は約19万人。 戦中・戦後移住は途絶えましたが1953年に移住が再開され合計25万人が移住しました。 多くの日本人はお金を貯めて帰郷しようと考えていましたが・多くの人がコーヒー農場の奴隷の代わりとして雇われ、イタリア移民の穴埋めのような存在として低賃金契約労働者として扱われたそう。 長年奴隷を扱っていた農場などでは移民の扱いに容赦なかったという。 「騙された」という思いにかられた移民も多かったそう。 こういった事から農場を抜け出し別の仕事に就くものもいた。 そしてある程度お金を稼ぎ、日本に帰る者・また自分で農場を開く者もいたそう。 ちなみに移民の9割は沖縄・九州出身者。 これには理由があり・もともと九州や沖縄にはそれまでにハワイに移民を多く送っていた事、気候も比較的にブラジルに近い事から即戦力になることを考えての事だという。 私の友人は小学校時代をブラジルで過ごし、現地の日本人学校に通っていました。 彼女は修学旅行で農場を経営する日系人の家にホームスティしたそう。 彼らはほとんど日本語が話せなかったが祖先の祖国に対する思いは非常に強く彼女は小学生ながら涙がでてしまったそうです。 彼女から聞いたブラジル話はなかなかスリリングなもの・また心温まるもの等たくさんあり、そのうち紹介できたらいいなぁ・・・なんて思っています♪ 昨日は仕事が忙しく・返事が遅れてしまいました! 仕事の合間をぬって・また家に帰ってからお返事させていただきますね♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年02月18日 11時38分59秒
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