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2005年07月15日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
前々回分のブログで紹介した
「モーターサイクルダイアリーズ」☆

この映画は本でもお馴染み、キューバの革命家・チェゲバラが若かりし頃行った南米貧乏旅行記。

私はこの作品けっこう気に入りました。
どうせなら、ゲバラについても知っておこう、と思ったので今回は簡単にですが・ゲバラの人物像について。



ゲバラ

こちら、チェゲバラ。(このルックスで・人気がでないわけないですよね~)
本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
(Ernesto Rafael Guevara de la Serna, 1928年6月14日 - 1967年10月9日)
アルゼンチン生まれのマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者。「チェ」はアルゼンチンのスペイン語で相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあだ名である。
革命家として日本の坂本龍馬を非常に尊敬していたという。

**プロフィール**

ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。
在学中の1951年にオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験し、南米各地の状況を見聞するうちにマルクス主義革命を志すようになった。
1953年に大学を卒業した後、フアン・ペロン支配下で軍医になることを避け(当時アルゼンチンはJ.D.ペロンの独裁政権下)ボリビアへ、
ボリビアで農地改革の現実を目撃、第二のラテンアメリカ放浪、アルベンス社会主義政権下のグアテマラで出会ったペルー人社会主義者イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ人と知り合う
グスマン政権がCIAに後押しされた反抗勢力に倒されると、メキシコに移り、この地に亡命中のフィデル・カストロと出会う。
(フィデル・カストロ・・・キューバの政治家、革命家、弁護士、社会主義者で国家元首。
事実上の独裁者。)

キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、反バティスタ武装ゲリラ闘争に参加することを決意する。

1956年、メキシコでカストロとゲバラの組織した革命軍はメキシコから一隻のクルーザー「グランマ号」でキューバへ渡る。
上陸後すぐにバティスタ政権の攻撃を受け、80人のメンバーは12人しか生き残らなかったが、カストロとゲバラは生存者であった。
かれらは、キューバ東部のシエラ・マエストラ山地に篭って再起し、武装闘争を継続した。カストロのゲリラの指導のもとに次第に反政府勢力が結集し、1959年、ついにバティスタは亡命する。

カストロの革命政権のもとで、キューバ国立銀行総裁、工業省、キューバ統一革命組織幹部会員などを歴任し、外交の面でも重要な役割を果たした。

革命が成功したあとゲバラは市民権を得て、中央銀行総裁さらに工業相に就任する。
一介の医学生で経済などよく知らなかった彼がいきなりこんな仕事に就いてしまったのだ。。。

ゲリラ戦士から役所に移って、ゲバラはさぞ居心地が悪かっただろうが・・・彼は猛烈に働いたという。
午前四時まで働くのは当たり前で、たまりかねた周囲の人々のためにしぶしぶ「午前一時までにしよう」と提案したという。
しかも彼は日曜もボランティアに出た。それも命令や事務仕事ではなくサトウキビ畑で上半身裸になって働いたのだ。
大臣が率先して現場で働くのを見て、周りの人々は刺激された、という。


ゲバラの人柄を表すこんなエピソードをみつけた。

キューバに「イスラ・デ・フベントゥ(若者の島)」という島があるが、ここで出会った日系移民の原田茂作さんも、その一人だ。
キューバ革命の直後、カストロ国家評議会議長とゲバラが彼の農園を視察に来た。
なぜこんな大物がじきじきに来たかというと、原田さんの農場が抜き出て優秀だったからである。大農場だけに、革命政府による接収も考えていた。
 ところが、原田さんの畑のスイカがやたら大きい。
食べるととても美味しい。
カストロもゲバラも驚いた。
なぜか、と原田さんに聞いた。
原田さんは、キューバ人は作物を乱暴に扱うが、日本流に端正に心を込めて育てれば農産物も立派に育つのだとさとした。
それを神妙に聞いていたカストロは、接収しようという考えを即座に捨て、今のまま農場を続けたうえ他の農場を指導してほしいと原田さんに要請し、苗木を分けてやってくれと頼んだ。

では、ゲバラはどうしたか。
彼は原田さんの妻けさのさんが握ったおにぎりをむしゃむしゃと食べ、口の周りをご飯粒だらけにしたまま、野菜の育て方を詳しく質問したという。「飾らないし、威張らないし、人間ができている人だなと思いました」と、原田さんはしきりにゲバラの人柄に感心していた。
握手した手が柔らかかったことも強く印象に残っているという。



その後、ソ連に依存をしようとするカストロとの確執、
ゲリラ戦争の経験を活かした革命を他の国でも成し遂げるべくキューバを離れる。

アフリカのコンゴで革命を指導した後、南米のボリビアに渡るが、1967年10月8日、この地でアメリカ特殊部隊の支援を受けた政権により捕えられ、その翌日に殺害された。

なお最期の言葉は射殺を躊躇する兵士に向かい「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃て!臆病者め!!」


チェ・ゲバラの生涯と思想は西側の若者や革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷され,改革のシンボルとなっている。






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最終更新日  2005年07月15日 22時26分16秒



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