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テーマ:ニュース(100222)
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その1・その2の続きです。
引き続き・日航機事故生存者、落合由美さんの証言を紹介します。 前回、前々回分にも書きましたが、お時間がありましたら是非 こちらもご覧になってください。 生存者の一人、落合由美さん日本航空の客室乗務員。 当日は非番で123便に乗り合せていました。 ***前回の続きから*** 衝撃がありました。 衝撃は一度感じただけです。 いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。 回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。 衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。 その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。 固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。 音は、まったく記憶にありません。 音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。 衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。 すごく臭かった。機械の匂いです。 油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。 体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。 左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。 足裏は何かに触っていました。 それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。 目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。 失明するだろうな、と思っていました。 これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。 すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。 灰色っぽい、夕方の感じなのです。 耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。 呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。 死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。 ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。 苦しみたくない、という一心でした。 しかし、痛くて、強くは噛めないのです。 墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。 ひとりではなく、何人もの息遣いです。 そこらじゅうから聞こえてきました。 まわりの全体からです。 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。 どのくらい時間がたったのか、わかりません。 すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。 私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。 左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。 すでに息はしていません。冷たくなっていました。 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。 右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。 頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。 右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあたったので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。 それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。 パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。 冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。 どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。 あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。何人もの息遣いです。 それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。 意識がときどき薄れたようになるのです。 寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。 私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。 突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。 学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。 しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。 私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。 もう機械の匂いはしません。 私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。 吐いたりもしませんでした。 やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。 あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。 それもすぐ近くです。 これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。 けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。 「帰っちゃいや」って、一生懸命振りました。 「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。 ああ、帰って行く・・・・・。 このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。 私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。 父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。 母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。 それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。 時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。 いろんなことが次々と頭に浮かびました。 涙は出ません。全然流しませんでした。 墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。 そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。 気がつくと、あたりはあかるかった。 物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。 生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。 返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。 あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。 でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。 すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。 だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。 そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。 朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。 どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。 体の痛みも、空腹も感じませんでした。 ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。 お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。 応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。 目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。 「はい、二、三回きたことがあります」って。 そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。 頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。 「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。 どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。 それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。 家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。 飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。 現実感がなかなかとりもどせないのです。 たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。 お医者さんが「四人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくさいました。 それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。 大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。 天井しか見えませんでした。 酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。 私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。 百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。 麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。 救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。 私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。 (吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より) この事故に関しては今でも謎が多く残されており、事故調査のずさんさ、また政府の対応など。。。 亡くなった方々の為に、またこういった事故が二度と起きない為にもどうしていくべきか考えていきたい。 この事故の件に関してはまた時間をみつけてとりあげていきたいと思います。 この事故、当時の日航についてくわしくに書かれています。 全5巻。 3巻はこの事故についてが中心に書かれています。 興味がありましたら是非手にとってみてください。 また遺族の手記も紹介していけたらな、と思っています。 (こちらに少しですが紹介させていただきました。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年08月02日 00時29分06秒
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