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2005年12月06日
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前回分ブログで取り上げているうちに興味がわいたこの映画。

ビルマの竪琴

1985年に公開された中井喜一さん主演版もあるのですが、あえて戦後すぐの1956年に公開された日活版を。


ビルマの竪琴/日活版 ◆20%OFF!

モノクロ映画を観たのは初めてでした。
モノクロならではの迫力もあり、また当時の役者さんの面々が今の役者さんに比べて泥臭くて、またそれもよかった。

今リメイクしてもこういう迫力はでないんだろうな・・・。。

    ★ストーリー★

1945年の夏、敗残の日本軍はビルマの国境を越え、タイ国へ逃れようとしていたが、その中にビルマの堅琴に似た手製の楽器に合せて、「荒城の月」を合唱する井上小隊があった。
水島上等兵は竪琴の名人で、土人に変装しては斥候の任務を果し、竪琴の音を合図に小隊を無事に進めていた。
やがて、小隊は国境の近くで終戦を知り、武器を捨てた。

彼らは遥か南のムドンに捕虜として送られることになったが、水島だけは三角山を固守して抵抗を続ける日本軍に降伏の説得に向ったまま、消息を絶った。

一方、ムドンに着いた小隊は、収容所に出入りする現地の物売り婆さんに水島を探して貰うが生死のほども判らなかった。
ある日、作業に出た小隊は青い鸚鵡を肩にのせた水島に瓜二つのビルマ僧を見掛けて声をかけるが、その僧侶は目を伏せて走り去った。

水島は生きていたのである。

三角山の戦闘のあと、僧侶姿の彼はムドンへ急ぐ道で数知れぬ日本兵の白骨化した死骸を見て、今は亡き同胞の霊を慰めるため、この地へとどまろうと決心した。
現地の物売り婆さんからあの僧侶の肩にとまっていた鸚鵡の弟という青い鸚鵡を譲り受けた井上隊長は「水島、いっしょに日本へ帰ろう」という言葉を熱心に教え込んだ。
三日後に帰還ときまった日、隊長は物売り婆さんに弟鸚鵡をあの僧侶に渡してくれと頼んだ。
すると、出発の前日になって水島が収容所の前に現われ、竪琴で「仰げば尊し」を弾いて姿を消した。

日本へ帰還当日、物売り婆さんが水島からの手紙と青い鸚鵡を持って来た。
鸚鵡は歌うような声で「アア、ジブンハカへルワケニハイカナイ」と繰り返すのだった。
それを聴く兵隊たちの眼には、涙が光っていた。

(GOO映画よりコピー)



文章にしてしまうと少しわかりにくいですが、今の映画と比べると内容はいたってシンプル。

映画の中で日本の童謡がいくどもでてくる。
とてもキレイ。

歌にはたくさんの思い出が詰まる。
きっと実際に戦地へ行った人々もこうやって日本の唄を歌って故郷を懐かしんだのだろう。


以前もここで紹介させてもらったけれど・戦犯として処刑された人の遺書にこういうものがある。




陸軍曹長 佐藤源治命
昭和23年9月22日 ジャワ島ツビナンにて法務死
岩手県出身 32歳



      僕は唱歌が下手でした


一. 僕は唱歌が下手でした。
  通信簿の乙一つ
  いまいましさに 人知れず
  お稽古すると 母さんが
  優しく教へてくれました。



二. きょうだいみんな 下手でした
  僕も 弟も 妹も
  唱歌の時間は 泣きながら
  歌えば皆も 先生も
  笑って「止め」と言ひました



三. 故郷を出てから十二年
  冷たい風の 獄の窓
  虫の音聞いて 月を見て
  母さん恋しと 歌ったら
  皆が 泣いて 聞きました



四. 僕のこの歌 聞いたなら
  頬すり寄せて 抱き寄せて
  「上手になった良い子だ」と
  賞めて下さる ことでせう






唱歌とは・・・明治の学制以降昭和一六年(一九四一)までの学校教育における
音楽教育の教科名。また、その学習活動や歌曲。



どんなに日本へ帰りたかったことか・・・・。。
胸がつまる。



結局主人公の水島は同胞の熱心な説得には応じず、ビルマに残る。

ビルマに屍として残されている同胞を残して帰れなかった。

今この時代から見れば現実逃避に見えなくもないが、
同胞への大きな愛、そして責任感を感じる。

白黒作品は少し見難いですがおススメできる作品です。


・・・・もちろん気になった点もあります。
ひねくれ者の私が「あ~よかった!!」で終わるわけがありません。


まずこの話の中心となる人々はイギリス軍捕虜。

この作品では苦しい労働を課せられるでもなくわりとのびのびと過ごしている。

・・・実際、こんな人道的に扱われていたのであろうか??

もちろん現在は捕虜は国際人道法(おおまかなものは1949年発足)により人道的に扱われる権利はあるのですが・・・終戦直後にはそんなものやそんな意識だってなかっただろう。

また60年も前ならば白人種の東洋人に対しての差別は露骨なものであっただろう。

自身のビルマでの捕虜体験を基に書いた会田雄次著「アーロン収容所」にはこう記されている。

「はじめてイギリス兵に接したころ、なんという尊大傲慢な人種だろうとおどろいた。
なぜこのようにむりに威張らなければならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。
かれらはむりに威張っているのではない。
東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。
女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるときに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである」


会田氏によれば、イギリス人は、ヨーロッパでの牧羊者が羊の大群をひきいていく感覚でアジア人を家畜として扱っていたという。
そういう感覚が長い間の植民地支配で身に着けてしまったのだろう、と。


この映画で日本兵は対等ではないものの、それなりに人道的に扱われていた。

戦後すぐ製作された映画だけにそういった表現はできなかったのだろうか・・・??

その点に違和感を感じた。


それと、気になった点はもう1つ。
主人公は水浴び中の高僧の袈裟を盗み高僧になりすまし、みなが待つ収容所まで旅をするのだが・・・

水浴び中に袈裟を盗まれた高僧は素っ裸で外にいなくてはならないし・・・
隙を狙うような行動は・・・
「美しくないな~~」と一人画面に向かいツッコミ。



それともう1点。
この映画で大きな役割を果たす竪琴。
実際ビルマでは僧侶は音楽を禁止されているそう。

音楽がなければ成り立たない話である分、こういった事実は目をつぶるべきでしょうかね(笑)

点数をつけるなら80点!
白黒の映像に新鮮さを感じたのも高得点の理由かも。


この映画には若き日の三國連太郎が・・・!!
やっぱり素敵な人は年を重ねても素敵(^*^)♪



おススメできる作品です。
機会があれば是非手にとってみてください☆



   *   *   *   *   *  

ビルマ(ミャンマー)の現状について宮武外骨さんのブログで取り上げてらっしゃいます。
その1

その2

とても勉強になりましたm(_ _)m














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最終更新日  2005年12月06日 18時39分48秒
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