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2006年02月08日
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テーマ:いい言葉(574)
カテゴリ:カテゴリ未分類
何度もこのブログで取り上げているこの詩。
 しつこくてごめんなさい(@。@)

手帳にもはさんでいて・何かあると見るようにしている。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシズカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ



人は欲があり、人より優位に立とうとする事によって進歩するのであって、欲もなく生きるなんてきっとつまらない。

だからこそこの詩は理想論でしかないのかもしれないけれど、人間のあるべき姿を書いたこの詩には何度読んでも心を動かされる。

無理や期待を押し付けるのではなく、ただただ謙虚に全てを受け入れる。

当時不治の病と言われた肺炎を患い、病床で手帳に書き記したこの詩。
死への不安、覚悟そして生への渇望が文章からにじみでている。


  *   *   *   *   *   *   *
 
☆宮沢賢治文学とは?☆


賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ仏教、特に後に帰依した国柱会(※1)での法華経による献身的精神があるとされる。
しかし法華経は宮沢家の宗派(浄土真宗)と違っていたので、それが父親との対立を生んでしまった。

実際、妙法蓮華経に興味を示し日蓮宗へ改宗した時、賢治は家族も改宗する様に説得したという。
しかし、厳格だった父はそれに応じなかった。
一方、妹のとしは妙法蓮華経に誘われる前、キリスト教にも興味を示していた。
だが、賢治はとしを強引に妙法蓮華経に帰依させてしまったという。

賢治について書かれている本の中には「宗教にはまり・・」と否定的に書かれているものも多い。

無理な上京で体を壊したのも、この対立と無縁ではなく、父子対立は賢治の文学に影を落としているとされる。
(しかし賢治が死の床で法華経を印刷して頒布してほしいという願いを口にしたときには、父はそれを許している。)

また特異で旺盛な自然との交感力は作品に個性的な魅力を与えた。

従来、文学的側面のみが語られてきたが、「教師としての宮沢賢治」の素晴らしさを記述する考察も近年現れている。
また、一生女性との性体験を持たなかったことに着目する論考もあるそう。



☆宮沢賢治とは・・?☆


明治29年8月27日、岩手県花巻町(現花巻市)にて誕生。(戸籍上は8月1日生まれになっています)

小学校五年生の時、賢治は父親に将来何になりたいかを訊かれ、「むやみに偉くならなくてもよい。」と答え、家族全員を驚かせたそう。


盛岡中(現盛岡第一高校)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業
後、稗貫農学校(のち花巻農業学校)や郡立農蚕講習所で教鞭を執りながら
文学活動を続ける。

15歳頃から短歌を書き始め、22歳頃から童話を書き始めます。同人誌な
どで活動しながら、自費出版なども行った。
(初めての自費出版は「注文の多い料理店」
注文の多い料理店

29歳の時、草野心平と知り合い・彼の積極的な紹介により、宮沢賢治の名前は少しずつ知られるようになっていきました。

ちなみに草野心平は蛙の詩でもよく知られる詩人。
海外への関心が強く・慶應義塾大学を中退し、中国の広東嶺南大学(現・中山大学)に進学するも、排日運動により、帰国せざるを得なかった。
1937年のいわゆる南京虐殺事件のとき、南京に滞在していたことでも知られるが、当時の彼の日記に虐殺の記録が一切見られないことが、南京事件「捏造」問題の証左のひとつとも言われている。
在中時代は、焼き鳥屋をやっていた経験を持つ。

草野心平




そんな矢先、病床に倒れ昭和3年 32歳の若さで急性肺炎を患い以後病床での日々。

敬虔な日蓮宗の信者であった宮沢賢治は亡くなる直前に自分で「南無妙法蓮
華経」と唱え、また遺族の手を煩わせないようにと、自分でからだを脱脂綿
できれいに拭いてから亡くなったという。

最期の言葉は「今夜は電燈が暗いなあ」。享年37歳。




※1 国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元・日蓮宗僧侶である田中智学(たなかちがく)が還俗して明治17年に設立した法華系の新宗教。
日蓮系教団の中ではエリート集団を標榜し、入会はきわめて難しい。

明治36年(1903年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」を『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」から造語し、大正2年(1923年)3月11日に機関紙の国柱新聞に「神武天皇の建国」においても言及した。

この思想は軍部に取り入れられ、八紘一宇・五族協和思想のバックボーンの一つとして極めて重要な役割を果たした。
一方で、大衆集会や演劇などや秘密結社的雰囲気が一部の知識人に受け、特に当時の文学界に一定の影響を与えている。


戦後はその政治的主張を徐々に薄めつつあるが、田中智学やA級戦犯の烙印を押された東条英機の墓所を設けるなど戦後もその役割は大きい。






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最終更新日  2006年02月08日 17時25分47秒



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