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カテゴリ:母ちゃんの日常
観てきました! 3月の公開を楽しみにしていたらまさかのコロナ禍。 映画に行くなんて罪悪のように思われそうで、行けなかったし、映画館もやっていなかった。 大衆娯楽の映画を観られないなんて… そう思ったのは私だけではなかろう。安価に楽しめる映画はいかに私を慰めていたか。 ステップ1とか2とか、県またぎはいけないとか、出かけようにも出かけられない。 まだ制限付きだが、映画は観られるのだ。 3月公開予定は6月に伸びてくれた。 映画館は消毒液が置かれ、席は前後左右一つずつ空けて、いつものようにポップコーン頬張りながら観るというわけにはいかない。マスク着用だから。 お行儀よく、鑑賞させていただいた。また映画館に来られる喜びをポップコーンがわりに噛みしめつつ。 若草物語、遥か昔の小学生時代に読んだ物語。そして舞台は19世紀なのだ。 懐かしいと言ってもアメリカに行ったことはなく、馬車だって乗ったことはない。 19世紀は馬車なんだなあ。 結婚は女性の唯一経済力を保障する機会。 これは日本だって同じだった…はず…身分制度の範囲内でね。 私は男性を経済力で見るのが嫌いだった。純粋だったんだろうな。 でも人を見る目なんてなかった。 今の時代だったから何とか自力で生きてきた。それは自分が選択したことなのだ。経済力で判断しないということは家柄も学歴も問わないということ。しかし、そう言いながら、何で判断すべきなのかわからなかった。自分が経済力を持って自立していたら、そういうことから自由になれると信じていた。まさか、自分の稼ぎを当てにされることがあろうとは夢にも思っていなかった。 それでもそういう選択をできるだけ幸せな時代だったのだ。 ジョーが自立したいと願い、結婚を拒否する気持ちが今ならわかる。 小学生の私にわかるはずはなく、若草物語は清く正しく生きるお手本のような世界だった。 私は時折、なぜあの荒くれた家庭から真っ直ぐ育つことができたのか自分でも不思議に思うことがあったが、昨日この映画を観てはっきり感じた。 これは聖書の世界なのだ。 若草物語もハイジも赤毛のアンもリンドグレーンも、聖書を基盤とした世界だ。まだ聖書を読む力のなかった小学生の私は翻訳ものの世界で、聖書に触れて、純粋だったので、無意識に刷り込まれたのである。 不器用な生き方しかできずにここまできたが、若草物語の愛について学びながら育ったのは、やはり幸せだっただろう。 今のようにボランティアなど学校で課されることも評価されることもないのに高校生くらいから参加していた。 「ボランティアなんて、お嬢様の趣味!お金にもならないのにバカみたい。あんたは結局お嬢様なんだっ」と母に罵られた日々。あばら家のお嬢様?(本当にあばら家) 私は小学生時代に刷り込まれた意識からボランティア活動を始めたような気がする。 天に宝を積みなさい… どこかでそう言われていたような気がしていた。それは若草物語を始めとした翻訳ものの児童文学からメッセージを受け取っていたからだ。 天の宝はすり減ってしまったようで、最近は強い不安感に襲われることも多い。また私は何か失敗をする、何かに出会ってしまう…恐怖心が募る。 でも、単純に思い直した。 もう、年なんだし、子供時代に素敵だと思ったことを気兼ねなくやったらいい。 誰が評価しなくても見ていなくても、神が見ている。日本流に言えばおてんとうさまが見ている、ということか。 さて、現実の私は楽しい休日を過ごした後、現実に引き戻されている。月曜日だもの。 映画を観られるなんて夢のような休日だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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